1962年7月1日、大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー第1試合では、急遽、荒川コーチに命じられた「一本足打法」がハマり、タイムリーヒットや本塁打を放つ活躍をした、王貞治(おう さだはる)さんは、その後も、「一本足打法」でホームランを量産すると、この年、本塁打王と打点王を獲得し、二冠王となっているのですが、「一本足打法」が成功したのは、それまで、荒川コーチと共に取り組んできた、特殊な練習があったからだといいます。

「王貞治の一本足打法はたった1日で止めていたかもしれなかった!」からの続き

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「一本足打法」は当初は話題にならなかった

巨人に入団して4年目の1962年7月1日、大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー第1試合で「一本足打法」を試すと、1打席目と2打席目には、大洋ホエールズの先発・稲川誠投手から、右前ヒットとライトスタンドにホームラン、4打席目には、二死満塁で3番手の左腕・権藤正利投手からレフト前に走者一掃のタイムリーヒットと、5打数3安打4打点の大車輪の活躍で、いきなり「一本足打法」で結果を出した王さんですが、

この頃、王さんは、しばしばフォームを変えていたこともあり、当初は話題にならず、巨人の親会社である読売新聞でさえ、ほとんど報じていなかったそうで、

(大洋ホエールズの稲川誠投手たちも、「何か変な打ち方をしているなあ」という程度だったそうです)

2週間ほど経った頃から、ようやく騒がれ始め、「案山子(かかし)打法」「一本足打法」「フラミンゴ打法」と呼ばれるようになり、しばらくして、「一本足打法」「フラミンゴ打法」の呼び名が定着していったそうです。

「真剣でわら束を切る」「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」という特殊な練習をしていた

そんな「一本足打法」は、王さんが荒川コーチに弱音を吐き、荒川コーチが「王が打たないから勝てない」と別所コーチに責められ、半ばやけっぱちで実践投入したものだそうですが、

「一本足打法」が成功したのは、それまで、荒川コーチと共に試した様々な練習があったからこそで、中でも、「真剣でわら束を切る」練習と「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」という練習が役に立ったそうです。

「真剣でわら束を切る」「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」イメージをバッティングに応用していた

まず、真剣はうかつに扱うと大ケガにつながることから、自ず神経を張り詰める効果があり、「真剣でわら束を切る」という練習では、わら束はきちんと一定の角度で刃が入らなければスパっと切れず、「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」という練習でも、短冊が真横を向いた瞬間にスパッと刀を入れないときれいに切れなかったため、とても集中しなければならなかったそうです。

(短冊の平面を切りつけてもぐしゃっとなって、刃にまとわりつくだけで切れなかったそうです)

ただ、何度も稽古を重ねているうちに、そのコツがつかめるようになると、打席でも、バットがボールに当たった後、(弾かれて終わりではなく)その中心に向かってバットが切り進んでいき、ボールの向こうに通り抜ける(バットでボールに切り込み、ボールを真っ二つに切る)イメージが持て、投球に対する集中力が格段に高まり、ボールを捕らえる精度も上がってきたのだそうです。


「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」練習に励む王さんと荒川さん。

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「一本足打法」でホームランを量産し本塁打王と打点王の二冠を獲得

すると、自分でもおもしろいように打つことができたそうで、7月の1ヶ月だけで本塁打を10本放つなど、本塁打を量産すると、このシーズン、最終的には、打率2割7分2厘、38本塁打、85打点で、本塁打王と打点王を獲得し、二冠王となったのでした。

(4月~6月には9本塁打だったのが、「一本足打法」にした後の7月~9月の3ヶ月(シーズン終了まで)では29本塁打と、本塁打を量産したそうです)

「王貞治は荒川博を指導者として絶賛していた!」に続く


1962年当時の王さんの「一本足打法」。

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