1979年秋のドラフト会議では、当時、最多の6球団から1位指名を受けると、自身も入団を希望していた阪神タイガースが交渉権を獲得し、相思相愛で阪神タイガースに入団するも、希望していたサードのポジションを掛布雅之選手と競うことを許されず、ファーストを守ることになると、今度は、突然、ヤクルトからデーブ・ヒルトン選手が入り、外野へコンバートされたという、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんですが、実は、ドン・ブレイザー監督は、ルーキーはいくら力があってもレギュラーとしては使わない方針だったといいます。

「岡田彰布はドラ1で阪神入団も外野手に転向させられ不満を募らせていた!」からの続き

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ドン・ブレイザー監督はルーキーはいくら力があってもレギュラーにしない方針だった

1980年、阪神に入団すると、甲子園での自主トレの際にポジションがファーストに決まり、春季キャンプではファーストの練習をさせられていたにもかかわらず、春季キャンプ中に、突然、ヤクルトからデーブ・ヒルトン選手が移籍してきてファーストとなったことで、外野にコンバートされ、不満を募らせていたという岡田さんですが、

実は、ドン・ブレイザー監督は、「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考え方をしていたそうで、

岡田さんは、ドン・ブレイザー監督との初対面の際、通訳兼コーチの市原稔さんを介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い」と告げられていたといいます。

また、ブレイザー監督は、マスコミに対しても、「アメリカではルーキーがすぐメジャーに上がってくることはあり得ない。2A、3Aで結果を出し、一段一段上がってくるのが当たり前だ」と断言していたのだそうです。

(これに対し、岡田さんは、「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えていたそうです)

ドン・ブレイザー監督は「勝つこと」と「育成」とは別物であるとの考えを徹底していた

ちなみに、ブレイザー監督は、会見の際、

記者が、

人気や興行面で考えると、岡田を外野や控えに回すのはマイナスではないのか

と、問うと、

去年、田淵が抜けて観客動員数が減ったか?お客を呼ぶことは勝つことだ。メンバーは力のある者で組むべきだ

と、答え、

その後も、

記者:岡田の将来性については考えないわけか

ブレイザー監督:スーパースターは必要ではないし、力のない者は使っていくことはできない

記者:岡田への説明が必要では

ブレイザー監督:どこでやるかは本人が分かることで、自分自身で考えればいいことだ。どこの球団でもそんなことはやっていないだろう

記者:本人を納得させる話し合いはしないのか

ブレイザー監督:それはしない。希望があれば聞いてやるし、そのために、いつでもホテルのドアは開けてある

とのやり取りをしており、

ブレイザー監督は、「勝つこと」と「育成」は別物であるとの考えを徹底して貫いていたのだそうです。

(前年、田淵幸一選手を西武に放出した張本人がブレイザー監督でした)

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掛布雅之が負傷離脱してもスタメンでは起用されなかった

そんな中、岡田さんは、オープン戦で本塁打を2本放つ活躍をしていたのですが、やはり、開幕後も代打要員のままでした。

すると、サードの掛布雅之選手が負傷し、1980年4月19日、20日と離脱するのですが、それでも、岡田さんがスタメンで起用されることはなかったのでした。

(一方、春季キャンプ中にヤクルトから獲得した(肩を壊していた)ヒルトン選手は、ずっと一塁のレギュラーとして起用され続けていました)

「岡田彰布はルーキー時スタメン起用を巡って大騒動となっていた!」に続く

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