早稲田大学時代は、3冠王やサイクルヒットを記録する活躍で、1977年秋季から5季連続でベストナインに選出されるほか、通算打率と通算打点は未だ破られていない素晴らしい成績を残した、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、大学卒業後は、ドラフトで、当時、最多の6球団から1位指名を受けると、交渉権を獲得した阪神タイガースに相思相愛で入団するのですが、当時監督だったブレイザーの方針で、転々と守備位置を変えられ、不満を募らせていたといいます。

「岡田彰布は東京六大学リーグで3冠王に輝いていた!」からの続き

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ドラフトでは最多の6球団から1位指名を受け交渉権を獲得した阪神タイガースに入団

早稲田大学で素晴らしい成績を残した岡田さんは、1979年秋のドラフト会議では、当時最多の6球団から1位指名受けると、抽選の結果、阪神タイガースが交渉権を獲得。

岡田さん自身も阪神入団を希望していたことから、契約金6000万円、年俸480万円で阪神に入団しています。

(岡田さんは、阪神からドラフト指名を受けた際、お世話になった人に「プロ入り記念時計」(文字盤は学生服姿の岡田さん)を作って配ったそうです)

阪神でも掛布雅之とサードを競うつもりだった

ただ、岡田さんの大学時代のポジションであるサードのレギュラーは掛布雅之さん。

それでも、岡田さんは、

ずっとやってきたので、三塁手に愛着があります。掛布さんに挑戦するつもりでやりたい。最初からコンバートではなく、競わせてほしい

と、言い、

1月の自主トレでも「サードの岡田です」とあいさつしたのだそうです。

春季キャンプではファーストの練習をさせられていた

ただ、この時点で、ドン・ブレイザー監督は、「三塁は掛布だ。岡田にはセカンドかショートで使いたい」と言っていたのですが、

(内野陣は、ショートは真弓明信選手がレギュラー、セカンドは、榊原良行選手、加藤博一選手、中村勝広選手で争っている状態、ファーストは故障の藤田平選手に代わり、佐野仙好選手が入っていました)

米アリゾナでの春季キャンプでは、佐野選手がセンターにコンバートされ、岡田さんは、シートノックでもファーストに入ることが多かったことから、ブレイザーは「岡田のためにポジションを空けたのでは」とも噂されました。

ヤクルトからヒルトンが入団したことでファーストから外野へコンバートされていた

しかし、阪神は、米アリゾナキャンプ中、突然、ヤクルトスワローズからセカンドのデーブ・ヒルトン選手を獲得。

そんな中、岡田さんが、

ということは、彼は内野を守り、あぶれたオレは一体、どうなる・・・

と、不安に思っていると、

ヒルトン選手は肩を壊していたことから、ファーストしか守るところがなかったそうで、岡田さんは、ドン・ブレイザー監督から外野へのコンバートを指示されたのだそうです。

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外野にコンバートされたことに対し記者たちに不満を訴えていた

さすがに、これには、岡田さんも不満を募らせたそうで、

日本への帰国を数日後に控えた1980年3月10日午後6時、米アリゾナ州テンピで右翼での外野ノックマシンでの守備特訓を受けた後、ベンチに戻ってきた際、記者たちに取り囲まれ、「どんな感じ?」と尋ねられると、

いまさら、外野なんてやりたくない。外野をやれ-と監督から直接言われたわけやないし、何がどうなっているんか、さっぱり分かれへん。もう、どうなってもええんですわ

ポジションを取るためには競争しなければならない。それで負けたら転向させられる。それは十分に分かっています。ヒルトンとトコトン勝負してダメというのなら分かるけど・・・。競争も勝負もしてへん

と、これまでたまっていた不満を一気に吐き出すかのように訴えています。

「岡田彰布は阪神入団当初ブレイザー監督の方針でスタメン起用されなかった!」に続く

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