1998年オフ、日本ハムファイターズを自由契約になり、現役続行を希望するも、どこからもオファーがなく引退したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、その後、解説者や評論家としての活動を経て、2003年10月8日、中日ドラゴンズの監督に就任しているのですが、今回は、その経緯をご紹介します。

「落合博満の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」からの続き

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現役引退後は解説者として活動していた

結果的に、日本ハム移籍2年目の1998年10月7日、ロッテ戦(千葉マリンスタジアム、ダブルヘッダー2試合目)での試合を最後に現役を引退することとなった落合さんは、その後は、解説者として活動するほか、1999~2003年には、日刊スポーツ野球評論家としても活動しています。

また、2001年2月には、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチも務めています。

中日ドラゴンズの監督要請を受けたのは「3年契約」「全権委任」が決め手だった

そんな中、落合さんは、2003年10月8日、中日ドラゴンズの監督に就任することが発表されているのですが、実は、中日の井手俊球団代表から電話で、「2年契約でチームを改革してくれ」「優勝してくれ」と、監督要請され、

落合さんが、

チームを改革するのは2年じゃ無理ですよ。3年下さい。

と、言って、話がまとまったら明日でもいいから電話を下さいと電話を切ると、

なんと、ものの5分か10分ほどで井手俊球団代表から電話がかかってきて、「3年契約でお願いします」と言われたのだそうです。

そして、その話の中で、「全権任せる。(招聘するコーチ陣なども)球団は協力するけど口は出さない」と言われたそうで、そのことがオファーを受ける決め手になったのだそうです。

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妻・信子の後押しで中日ドラゴンズ監督を即決していた

ちなみに、井手俊球団代表から折返しの電話がかかってきた時、2階から妻の信子さんが降りてきて、「なんの話?」と聞かれたそうで、落合さんが、「監督の話だ」と答えると、信子さんは、新聞広告の裏に「OK GO」と書いて見せたそうで、

落合さんは、「(監督を)やれということだな」と、ものの10分ほどで監督オファーを引き受けたのだそうです。

(当時、中日ドラゴンズの監督候補には、野村克也さん、谷沢健一さん、高木守道さんが挙がっていたものの、落合さんの名前は挙がっておらず、10月8日就任直前での急転直下の監督就任だったのですが、落合さんによると、監督要請は、後にも先にも、この時の中日ドラゴンズからの1回きりだったそうで、監督要請に関する様々な報道は全部デタラメとのことです)

「落合博満は中日監督就任時コーチに暴力即解雇の誓約書を書かせていた!」に続く

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