1974年、ドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、1979年には、チーム新記録で本塁打王を獲得するほか、1982年、1984年も本塁打王になるなどの活躍で、「ミスタータイガース」と称された、掛布雅之(かけふ まさゆき)さん。そんな掛布さんは、幼い頃から様々なスポーツに親しんだそうですが、何よりもバットを振ることが好きだったといいます。
年齢は?出身は?身長は?血液型は?本名は?
掛布さんは、1955年5月9日生まれ、
千葉県千葉市中央区の出身、
(新潟県三条市生まれ)
身長175センチ、
体重77キロ、
血液型はB型、
学歴は、
千葉市立新宿小学校
⇒千葉市立新宿中学校
⇒志野市立習志野高等学校卒業
趣味は、靴収集、格闘技観戦、釣り、クルマ、バイク、
特技は、料理、ボウリング、
ちなみに、「掛布雅之」は本名で、お父さんが俳優の森雅之さんの大ファンだったことから名付けられたそうです。また、珍しい「掛布」という名字のルーツは、掛布さんによると、おじいさんの出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかとのことでした。
(実際には、掛布という名字は愛知県江南市に多くみられるそうです)
新潟県三条市で誕生し、1歳の時に千葉市に引っ越ししていた
掛布さんは、千葉市内で料理屋「みやこ」を営むお父さんの泰治さんとお母さんのもと、6人兄弟(男3人、女3人)の5番目、3男としてお母さんの郷里である新潟県三条市で誕生すると、
1歳の時には、お父さんの郷里である千葉市(現在の中央区新宿)に移り住んだそうです。
父親・泰治は千葉商業高等学校の硬式野球部で部長と監督を兼務していた
掛布さんのお父さんの泰治さんは、太平洋戦争が始まる前の一時期、千葉県千葉商業学校(現・千葉商業高等学校)教員で、硬式野球部の部長と監督を兼務していたそうで、戦時中は、千葉商業高校で軍事訓練を指導する教練の教師を務めていたそうです。
その後、戦時中には中国に渡ったそうですが、終戦をきっかけに郷里である千葉市(現在の中央区新宿)へ引き揚げてくると、職業を転々とした末に料理屋を始め、そのかたわら、戦後復活した千葉商業高校の野球部の部長兼監督に就任したそうです。
(野球部を甲子園に手の届くレベルへ引き上げたそうですが、試合での判定を巡るトラブルの責任を取って辞任したそうです)
幼い頃から自宅近くの公園でバットを振ることが何よりも好きだった
そんなお父さんの影響で、掛布さんは、幼い頃に野球を始めたそうですが、小学校時代は、野球のほかにも、剣道、水泳、サッカーなど様々なスポーツに励んだそうです。
(小学生の時には、鉄棒の大車輪ができるほど、運動神経抜群だったそうです)
ただ、何よりも、自宅近くの公園でバットを振ることが好きだったそうで、「内角高め、外角低め」とつぶやきながら、高さの違う雑草の葉を投手が投げるボールに見立てて、いつまでも振り続けていたそうです。
字を書く時は右手、お箸を持つ時は左手
ちなみに、掛布さんは、「右投左打」なのですが、字を書く時は右手、お箸を持つ時は左手を使用しているそうです。
ただ、「右投げ左打ちになった理由はよく分からない」と語っています。
(噂では、幼い頃に、利き手だった右手をお父さんに左手に矯正されたと言われているのですが、掛布さんはその話には触れていません)
「掛布雅之は中学時代に父親が野球部監督で猛烈にしごかれていた!」に続く