小学生の時には、自宅近くの公園で、高さの違う雑草の葉を投手が投げるボールに見立て、いつまでもバットを振り続けるほど、バットを振ることが好きだったという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、中学では野球部に入部するのですが、なんと、お父さんが監督になったことから、「自分の息子に甘い監督とは思われたくない」と、特に厳しくしごかれたといいます。

「掛布雅之は幼い頃からバットを振ることが何よりも好きだった!」からの続き

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中学の野球部では父親が監督に就任していた

小学生の時、自宅近くの公園でバットを振ることが何よりも好きだったという掛布さんは、千葉市立新宿中学校に進学すると、野球部に入部したそうですが、(いつ頃かは不明ですが)お父さんが監督をすることになったそうで、それ以来、厳しい練習の日々がスタートしたそうです。

実は、お父さんは、かねてより、「男の子を野球選手として甲子園に」という夢を持っており、(他の野球部員には優しかったそうですが)息子である掛布さんには厳しく接し、当時、内野のノックは、三塁、遊撃、二塁という順に行われていたのが、誰かがミスをすると、また、三塁手である掛布さんに戻ってノックが始まる、という仕組みになっていたそうです。

父親が監督だったことから特に厳しく当たられていた

そんな中、なぜか、ミスする選手が多く、三塁手の掛布さんはノックを受け続けることになったそうですが、ある時、つらい気持ちが表情に表れてしまうと、お父さんに激怒され、数分間に渡って、殴る蹴るの暴行を受けたことがあったそうですが、掛布さんは、三塁ベースを抱きかかえるようにして耐えたといいます。

そして、お父さんの「どうだ。もう1回ノック受けるか」の声が聞こえてくると、中学生の掛布さんにも意地があり、もう、こうなったら、監督でも父親でもないと思い、

よし、いこう。みんな、頑張っていこう

と、元気な声で言うと、

その声を合図に、再び、お父さんの内野ノックが始まったのだそうです。

ちなみに、後に、お父さんには、「あの時、音(ね)を上げていたら、お前には野球をやめさせるつもりだった」と言われたそうで、掛布さんを殴ったり蹴ったりしたことについては、「自分の息子に甘い監督とは思われたくないから」と言われたそうです。

実際、掛布さんは、1年生から三塁手でレギュラーとして活躍しており、「父親が監督だから試合に出られる」とよく陰口を叩かれていたそうで、お父さんはそのことを知っていたのかもしれません。

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父親から巣立ちたい気持ちから習志野市立習志野高校に進学していた

そんな掛布さんは、中学卒業後は、地元を離れ、千葉県内にある習志野市立習志野高校へ進学しているのですが、

掛布さんは、その理由について、

オヤジは千葉商(千葉商業高等学校)に進学して欲しかったようです。(お父さんは、かつて、千葉県千葉商業学校で野球部の部長と監督を務めていました)

でも、いつもオヤジと戦っているような自分が、親の七光のように思われて千葉商に進学するのがイヤだったんでしょうね。父親から巣立ちたい、っていう気持ちがあったんだと思います。

と、明かしています。

(父親が監督で息子が主力選手という、お父さんと掛布さんの関係は、地元では「親子鷹」として有名だったそうです)

「掛布雅之は高校2年生の時に甲子園に出場するも1回戦で敗退していた!」に続く

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