帝京商業学校(中学)1年生の時には、大人の言う通りにしていただけとはいえ、自身のせいで、野球部が甲子園出場辞退を余儀なくされたことから、仲間たちから疎まれ、冷たい視線を向けられたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、中学3年生の夏、再び、野球部が東京大会(予選)を勝ち抜き、甲子園行きの切符を手に入れるも、今度は、太平洋戦争の戦局の悪化で甲子園大会が中止になったといいます。

「杉下茂は自身のせいで甲子園出場辞退となり不登校になっていた!」からの続き

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中2の時には「軍事教練」で背中に10キロの石を担いで休憩なしに富士山を登らされていた

杉下さんが帝京商業学校2年生(14歳)の時には、戦時色(太平洋戦争)が濃くなり、授業でも「軍事教練」という科目ができ、全国の中等学校以上の学校に軍人(配属将校)が派遣されたそうですが、これが、軍隊式で厳しく、怖かったそうで、

杉下さんたち生徒は、代々木、習志野、富士山の裾野などにあった練兵場で、軍隊式の訓練を課せられ、背中に10キロの石を担いで、休憩なしに富士山を登らされたこともあったそうです。

また、野球は敵性(アメリカの)スポーツだったことから、野球部だった杉下さんは、一部の配属将校から目の敵(かたき)にされていたそうです。

甲子園大会中止決定後に地区予選を優勝していた

そんな中、1941年、杉下さんが中学3年生の時には、帝京商業学校はすば抜けて強かったそうで、地区予選の決勝戦は14対0という圧勝だったそうですが、

実は、東京府の大会(予選)が始まる前に、すでに戦局(太平洋戦争)が悪く、甲子園(第27回全国中等学校優勝野球大会)の開催中止が決定していたのだそうです。

(ただ、杉下さんは、この時も、ベンチ入りはするも、試合には出場していなかったそうです)

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甲子園大会中止は関東軍の大演習による国内部隊大動員のため

ちなみに、甲子園大会中止の理由は、関東軍の大演習による、国内部隊が大動員される時期と重なって、輸送態勢が逼迫(ひっぱく)するため、「県をまたいでの移動」が禁じられたことで、必然的に、全国大会(甲子園)は開催不可能(中止)となったのだそうです。

(ただ、地方大会は支障がなかったことから、甲子園大会中止決定にもかかわらず、東京大会は開催されたのだそうです)


(後列左から2人目が杉下さん)

「杉下茂は「幻の甲子園」予選準決勝で逆転サヨナラ負けを喫していた!」に続く

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