1942年、帝京商業(旧制中学)4年生の時には、ついに、東京大会(予選)に出場したという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、準決勝の京王商戦で逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園出場の夢は叶わなかったといいます。

「杉下茂の中3の夏は甲子園大会が中止になっていた!」からの続き

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戦争の為1941年から1946年まで甲子園大会中止も1942年のみ戦意高揚の目的で復活していた

1941年、太平洋戦争で軍隊動員を図るため、甲子園大会が中止となると、それから1946年まで、甲子園大会は中断されたそうですが、1942年だけ、文部省(現・文部科学省)主催で、夏の甲子園大会が「大日本学徒体育振興大会」として復活したそうで、

(予選を勝ち抜いた学校が甲子園に集まり、全国大会が行われたそうですが、正式な大会とはされず、「幻の甲子園」と呼ばれているそうです)

旧制中学4年生(高校1年生)になっていた杉下さんは、一塁手として予選に出場していたそうですが、

(杉下さんは、高等小学校までは投手だったそうですが、帝京商業に入学後、すぐに右肘を痛めてしまったことから、背が高く、ワンバウンドを取るのが上手だったこともあり、一塁手に転向したのだそうです)

この大会は、目的が、戦意高揚だったことから、投手から球をぶつけられても「球から逃げるとは何事だ」と怒られ、死球を取ってもらえなかったそうで、

杉下さんは、

(審判におかしいと抗議できなかったそうで)何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。

国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている

と、語っています。

準決勝の京王商(現・専修大学附属高等学校)戦では逆転サヨナラ負けを喫していた

さておき、試合はというと、前年の決勝戦で一蹴した京王商(現・専修大学附属高等学校)が準決勝の相手だったそうで、3点リードしていたものの、9回、下級生の投手が感極まって涙を流しながら投げたことから、ストライクが入らなくなり、4点を取られて逆転サヨナラ負けを喫してしまったそうで、杉下さんの甲子園出場の夢は潰(つい)えたのだそうです。

(杉下さんが最終学年(5年制)となる翌年の1943年には、甲子園大会はもちろん、地方大会も行われなかったため、事実上、これが最後の地方大会となったそうです)

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1943年には東京六大学野球も中止になっていた

ちなみに、杉下さんは、当時の様子について、

柔道や剣道は逆に推奨されていたし、野球だって、大人に見つからないように、隠れて早朝に練習したりしていた。意外にたくましかったよ(笑)

それに、軟式野球はまだ大会が残っていたからね。私が住んでいた東京市神田区(現東京都千代田区)でも大会があり、近所の人とチームをつくって参加していた。しかし、1943年は大人気だった東京六大学野球が中止になり、神宮外苑では出陣学徒壮行会が行われた。いわゆる学徒出陣だ。段々と暗い時代になっていった

と、語っています。

「杉下茂はヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)のとき徴兵されていた!」に続く

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