帝京商業学校野球部では、ついに甲子園に行くことができなかったという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、高校卒業後は、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職したそうですが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年、19歳の時、徴兵されたといいます。

「杉下茂は「幻の甲子園」予選準決勝で逆転サヨナラ負けを喫していた!」からの続き

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帝京商業学校卒業後はヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職

杉下さんは、1943年12月、旧制中学5年生(17歳、現在の高校2年生)の時、4ヶ月繰り上げで帝京商業学校を卒業すると、川崎市のヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職し、お母さんに、「大学へ行かないのかい?」と心配されたそうですが、

戦火が激しくなり、進学しても待っているのは勤労奉仕だけだったことから、同じ働くならと、戦車や軍用トラックを製造していた国策に沿った会社を選んだのだそうです。

(※この時代は現在の高校3年生にあたる学年はなく、一般的には旧制中等学校(5年制)を17歳で卒業後、大学へ進学するか就職することになっていたそうです)

ヂーゼル自動車工業には元野球選手が大勢在籍していた

ちなみに、ヂーゼル自動車工業は、都市対抗に14度出場する野球の名門だったことから、この頃に解散したプロ野球の大和軍の元選手も多数在籍していたそうで、元選手たちは、昼休み、あちこちでキャッチボールを楽しんでいたそうですが、

野球は敵性(アメリカの)スポーツとみなされていたことから、杉下さんは、その輪には入らなかったのだそうです。

戦局の悪化で19歳で徴兵検査を受けさせられ「第一乙種」となっていた

その後、1944年になると、東京の街は戦争一色となり、兵力不足を補うため、徴兵年齢が20歳から19歳に引き下げられたそうで、19歳になっていた杉下さんも、同年5月、徴兵検査を受けさせられたそうですが、

杉下さんは、銃の照準を合わせるのに重要な視力が悪かったことと、幼少期に肺を患ったことがあるため、最上位(体に何も問題がない)の「甲種」ではなく、2番目の「第一乙種」となったのだそうです。

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19歳の時に軍に召集される

すると、軍へは、甲種合格者から順番に召集されるはずだったのですが、そんな悠長なことを言っていられないほど、戦局は悪化していたことから(報道では連戦連勝と報じられていたそうですが)、

やがては、「第一乙種」だった杉下さんのもとにも入隊日を知らせる通知が届き、杉下さんも同年(1944年)12月25日、栃木・宇都宮に入隊したのだそうです。

(この頃、3歳年上で大学生だったお兄さんも学徒出陣し、茨城の神ノ池海軍航空隊に所属していたことから、お母さんは覚悟が出来ていたようで、「頑張っておいでよ」と言われ、送り出されたそうですが、杉下さんも、子供の頃から兵隊になるのは名誉だと教育されてきたため、死ぬかもしれないという怖さはなかったのだそうです)

「杉下茂は19歳のとき徴兵され地下足袋で1日40キロ10日も行軍していた!」に続く

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