1939年4月、旧制帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)に進学するも、その年の3月まで在籍していた一ツ橋高等小学校から高等小学校の軟式野球大会に出場してほしいとの依頼を受け、4番投手で出場すると、見事、一ツ橋高等小学校を優勝に導いたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、その後、帝京商業学校に復学し、「第25回全国中等学校優勝野球大会」の予選である東京大会に出場すると(試合には参加せずベンチのみ)、思いも寄らぬ大問題になったといいます。

「杉下茂は中1のとき小学校の軟式野球大会に出場し優勝していた!」からの続き

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高等小学校大会終了後は帝京商業学校に復学

当時、尋常小学校を卒業した後、2年制の高等小学校に進むか、5年制の中学校に行くか選択できた中、一ツ橋高等小学校に進学するも、卒業を待たずに、1年後、帝京商業学校(5年制の中学校)へ転校した杉下さんですが、

2ヶ月後、同年3月まで在籍していた一ツ橋高等小学校から東京府の高等小学校大会への出場依頼があったことから、帝京商業から休学届けを提出するように言われ、一ツ橋高等小学校の在籍を大会終了まで延ばして、高等小学校大会に出場すると、

大会終了後は、帝京商業学校に復学し、今度は、1939年、神宮を主会場に48校が参加して行われた(中学の)東京大会に出場したそうです。

(ただ、杉下さんは試合には出ず、ベンチに座っていただけだったそうです)

決勝戦で日大三中を破り初の甲子園出場が決定するも・・・

すると、帝京商業学校は、7月23日から始まった2次予選を強打で勝ち進み、準々決勝の目白商業学校戦は11対1、準決勝の早稲田実業学校戦は9対1と圧勝し、

5日間で5試合行う強行日程の中、迎えた7月28日、日大三中との決勝戦では、初回、いきなり4点を奪うと、一時は、5対6と逆転されるも、6回に3点を奪って再逆転すると、結局、9対6で逃げ切り、初優勝を決めたそうで、

翌29日、東京朝日新聞には、コーチの肩書ながら事実上監督だった御子柴良雄さんの、

学校の武道場で合宿して、中学野球の本領である精神の昂揚(こうよう)に努め、毎朝、明治神宮に参拝に行きます。甲子園では“東京代表弱し”の汚名を雪(すす)ぐため、ベストを尽くして戦います

というコメントが掲載されたそうですが・・・

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対戦相手だった日大三中から思わぬクレームがついていた

「第25回全国中等学校優勝野球大会」に東京の代表校として出発する直前、決勝で帝京商に敗れた相手校(日大三中)から、

選手の中に未登録の高等小学生(杉下さん)が入っている

一ヶ月前まで高等小学校のエースだった選手(杉下さん)が帝京商のベンチにいるのはおかしいではないか

と、思いも寄らないクレームがついたというのです。

(杉下さんは、ベンチ入りはしていたものの、準決勝、決勝を含め、試合には出場しておらず、球拾いやバットの片付けなどの雑用をしていたそうですが、日大三中から見れば、つい1ヶ月前、高等小学校の大会で投げていた投手が帝京商のベンチにいるのはおかしいということでした)

「杉下茂は自身のせいで甲子園出場辞退となり不登校になっていた!」に続く

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