幼い頃から肺を患い、病弱だったにもかかわらず、お兄さんとキャッチボールをしたり、友達と草野球をするなど、野球が大好きだったという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、1939年4月には、旧制帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)に進学するのですが、その年の3月まで在籍していた一ツ橋高等小学校から高等小学校の軟式野球大会に出場してほしいとの依頼を受け、出場していたといいます。

「杉下茂の少年時代は病弱も野球が大好きだった!」からの続き

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小学4年生の時に父親が他界し野球の強豪校・錦華小学校に転校

杉下さんが小学4年生の時、お父さんの和一(わいち)さんが他界したそうで、それに伴い、一家で、神田区(現・千代田区)に引っ越すと、杉下さんは、区大会で負けなしの強豪だった錦華小学校に転校したそうですが、

4~5歳年上の仲間に混ざって野球をしていたところ、野球部に勧誘され、野球部に入部したそうで、最初の試合で捕手で出場すると、2試合目からは投手を務めることになったそうです。

帝京商業学校・野球部に入部するも前年まで在籍していた一ツ橋高等小学校から軟式野球大会への出場依頼があった

その後、杉下さんは、1939年4月(13歳)、旧制帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)に進学すると、創部4年目だった野球部に入部しているのですが、

2ヶ月後、同年3月まで在籍していた一ツ橋高等小学校から、

東京市内の高等小学校の軟式野球大会に出場するので、おたくの一年生の杉下をお借りしたい

との申し出があったそうです。

(この大会は毎年6月に上野で開かれていた東京府の高等小学校大会で、一ツ橋高等小学校が(当時の)神田区代表に選ばれていたそうです)

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高等小学校の軟式野球大会に4番投手で出場し優勝していた

ただ、かつての仲間が残るチームだとはいえ、すでに中学生になっていた杉下さんが、この小学生の大会に出場することは、本来なら許されないはずなのですが、帝京商校は、この申し出を受け入れ、杉下さんは大会に出場することになったそうで、

実際、杉下さんが4番投手で出場すると、杉下さんの速球は誰にも打たれることなく、一ツ橋高等小学校は、見事、優勝したのだそうです。

(杉下さんは、小学生だった前年、この大会に出場し、その活躍が注目されて、一ツ橋から帝京商に進学した大屋克巳さんという先輩に誘われて、帝京商に進学しているのですが、当時の高等小学校は2年制で、尋常小学校を卒業した後、高等小学校に進むか、5年制の中学校に行くか選択できたそうで、杉下さんは、一旦、一ツ橋高等小学校を選んだものの、卒業を待たずに、1年後、帝京商へ転校したそうで、そのため、帝京商は、この大会に杉下さんが出場する時、杉下さんに休学届けを提出させ、杉下さんの一ツ橋高等小学校の在籍を大会終了まで延ばし、出場可能としたのだそうです)

「杉下茂は中1のとき高等小学校大会に出場したことが大問題になっていた!」に続く

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