現役時代、朝まで飲み明かしても、その日の登板試合では完封勝利を収めてしまうという驚異的なスタミナで、”ガソリンタンク”と呼ばれた、米田哲也(よねだ てつや)さん。
そんな米田哲也さんは、プライベートでは、結婚を1度と離婚を1度しているといいます。
今回は、米田哲也さんの、元妻、現在の妻、子供(息子)についてご紹介します。
「米田哲也のヨネボールとは?フォークのような軌道からやや横に変化していた!」からの続き
米田哲也の元妻は松竹の映画女優
米田哲也さんの元妻は、松竹の映画女優だったいいます。
というのも、かつて、米田哲也さんのウィキペディアには、
時間をかけてゆっくり食べる「米田ディナー」は、金田のキャンプ時代の鍋と共に有名。
この米田ディナーのカギを握っていたのが、元松竹の映画女優であった夫人で、急なリリーフの場合を除き、先発予定日に合わせて食材を用意。
ローテーションが変わったり、登板日が読めなくなると、監督の西本に直接電話して夫がマウンドに登る日を聞きだすとまで言われていた
という記述があったようなのです。
(現在は削除されています)
また、2025年3月には、日刊ゲンダイに、
ガソリンタンクという呼び名は、酒豪だったことから付けられた。現役時代に痛風を患い、最近は持病の糖尿病が悪化して激ヤセしていましたが、大好きなお酒はやめられなかったのでしょう。
現役時代から女性関係が派手で、元女優の妻とは離婚したと聞いています。かつては高級住宅街に住んでいたのに、今や集合住宅暮らし。苦しい生活を送っていたのは確かでしょうけど……
と、報じられています。
米田哲也の元妻は美人だった
ちなみに、1977年の「週刊ベースボール」(2月7日号)に、自宅で奥さんと息子さんと3人で家族団らんのひと時を過ごす米田哲也さんの姿が掲載されていたことが、SNSに投稿されていましたが、
投稿者の判断により、奥さんと息子さんの姿は削除されていました。
また、この記事では、奥さんがとても美人だと紹介されていたようです。
ただ、米田哲也さんが、元妻とどのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚し、離婚に至ったのか、詳細は不明です。
もともと左側に奥さんと息子さんの姿が写っていたようです。
米田哲也の現在の妻は?万引で逮捕?
その後、米田哲也さんは、再婚したようですが、元妻同様、どのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったかは不明です。
ちなみに、米田哲也さんは、2025年3月、兵庫県内のスーパーで缶酎ハイ2本を万引きして、逮捕されており、その際、2016年から、築およそ50年の2階建ての木造アパートで暮らしていることが報じられたのですが、
このアパートの大家さんは、週刊誌の取材に対し、
間取りは2DKで、家賃は5万円。米田さんは奥さんと住んでいますよ。入居するとき、契約書の職業欄に“野球コメンテーター”とあって、“あの米田哲也やんか!”と。
入居してくれるのであれば、そうしてほしいと思いました。米田さんといえば大エース。私は阪急のホームグラウンドだった西宮球場まで、よう観に行っていましたから
と、米田哲也さんが奥さんと2人で暮らしていることを明かしています。
また、この大家さんは、米田哲也さんが家賃を500万円くらい滞納していることを明かしつつ、
“もうちょっとしたらカネ入んねん”って、毎回同じこと言うんですよ。保証人が奥さんだから、どうしようもない。奥さんに聞いても、すぐ“主人を呼んできます”って引っ込んじゃう。
3月にも行ったんですけどね。まあ、裁判となると弁護士を雇わないといけないし、私は元阪急ファンやからなあ
と、奥さんが保証人になっていることなども明かしています。
(米田哲也さんは、かなり生活に困っていたようですが、生活保護は受けておらず、一時は、奥さんの身内に援助してもらっていたそうですが、それでも立ち行かなくなり、2024年秋頃から、生活保護を受け始めたといいます)
米田哲也の子供は息子が少なくとも1人
そんな米田哲也さんの子供ですが、
前述の通り、1977年の「週刊ベースボール」(2月7日号)に、自宅で元妻と息子さんと3人で、家族団らんのひと時を過ごす米田哲也さんの姿が掲載されていたため、少なくとも息子さんが1人はいるようで、
当時、息子さんは、小学生くらいだったということで、2025年現在は、50代だと思われます。
ただ、子供についても、奥さん同様、ほとんど情報がなく、職業など詳細は不明です。
さて、いかがでしたでしょうか。
米田哲也さんの、
- 米田哲也は小学校低学年の時に往復10キロの砂浜を走り込んでいた!
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 愛称「ガソリンタンク」の由来はお酒をよく飲むからだった
- 終戦後にもかかわらず少年時代は食べるものに苦労せず育っていた
- 小学校低学年の時に往復10キロの砂浜を走り込んでいた
- 米田哲也は高1にしてカーブ・シュート・スライダーを習得していた!
- 高校1年生にして、カーブ、シュート、スライダーを習得していた
- 回転軸の真っ直ぐな速球を投げていた
- 渡辺省三と金田正一が投げ合うのを見て自分もプロでやっていけるのではと思っていた
- 米田哲也は阪急と阪神の両方と(二重)契約していた!
- 阪急ブレーブスと契約するも・・・
- 後援者に説得されて大阪(阪神)タイガースとも契約
- 二重契約のなか阪神の自主トレに参加していた
- 米田哲也が阪急を選んだのは背番号18をくれたからだった!
- 井上登コミッショナーの裁定により阪急に入団
- 実は米田自身がエースナンバーの背番号18を用意してくれた阪急を選んでいた
- 阪急に入団するとすぐに西村正夫監督や井野川利春投手コーチに絶賛されていた
- 打撃も凄まじく打者転向を勧められていた
- 初めて西宮球場を訪れた際にはその立派さに驚いていた
- 米田哲也は19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた!
- 19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた
- 初登板&初先発は無失点も「ルーキーが勝ち星はあかん」と勝利投手寸前の4回2/3で交代させられていた
- プロ4打席目で満塁ホームランを放ち「満塁弾の最短記録」となっていた
- 米田哲也は阪急の10年選手ボーナスへの不満からトレードを希望していた!
- 読売系のスポーツ新聞によりトレードが報じられる
- 契約更改交渉の席で10年選手ボーナスの金額を巡って阪急球団と揉めていた
- 阪急・岡野祐球団社長はトレードをきっぱり否定も米田自身は揺れていた
- 米田哲也の巨人トレードは小林米三オーナーの断固拒否で決着していた!
- 阪急・岡野祐球団社長は米田哲也のトレードを再考すると答えていた
- 「米田を出すならオレも辞める」と言っていた阪急・西本幸雄監督も微妙な言い回しに変わっていた
- 阪急・小林米三オーナーが米田哲也のトレードをきっぱり否定
- 米田哲也は400勝を目指して他球団移籍を申し出ていた!
- 1971年には通算300勝を達成
- 20年目のシーズンには出場機会を求めて移籍を希望
- 阪急球団は来季よりコーチとして残留を希望も最終的にはトレードを了承
- 米田哲也は皆川睦雄と反りが合わず阪神を退団していた!
- 1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍
- 阪神ファンには熱狂を持って迎えられていた
- 阪神タイガースは皆川睦雄投手コーチへの反感からわずか1年半でを退団
- 米田哲也は近鉄で350勝を達成するも僅か11日後に現役引退していた!
- 近鉄バファローズ移籍後に通算350勝を達成するも・・・
- 350勝から11日後に引退した理由とは?
- 病気さえなければ400勝できていた?
- 米田哲也の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- タイトルは最多勝利1回、最多奪三振1回、最優秀防御率1回
- シーズン最多完封勝利ほか記録多数
- 野球殿堂競技者表彰、MVPなどの表彰も
- 背番号
- 米田哲也は西本幸雄の推薦で阪神の一軍投手コーチに就任していた!
- 現役引退後は野球解説者や野球評論家として活動
- 西本幸雄に推薦され阪神タイガースの一軍投手コーチに就任
- 吉田義男監督はキャンプでの規則を厳しくしていた
- コーチの米田哲也が規則に反対したことで選手の不満は爆発せずに済んだ?
- 米田哲也は投手コーチとして阪神のリーグ優勝&日本一に貢献していた!
- 右肩を壊していた中田良弘投手を復活させていた
- 中西清起投手をストッパーに推薦して阪神の球団史上初の日本一に貢献
- 吉田義男監督と反りが合わず阪神を退団
- 米田哲也のヨネボールとは?フォークのような軌道からやや横に変化していた!
- 阪神の投手コーチ辞任後はオリックスや近鉄で投手コーチも
- 登板試合数949は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手に次いでNPB2位
- 「ヨネボール」とは?
- 「ヨネボール」を習得するのに5年かかっていた
- 米田哲也の元妻は映画女優!現在の妻は?子供(息子)は?
- 米田哲也の元妻は松竹の映画女優
- 米田哲也の元妻は美人だった
- 米田哲也の現在の妻は?万引で逮捕?
- 米田哲也の子供は息子が少なくとも1人
について、ご紹介しました。
同じく、球界の草創期から活躍した、関根潤三さん、豊田泰光さんとの対談では、
今の選手は文句から始まりますしね。ピッチングコーチをしていても、こうやれというと「肩を壊したら補償してくれますか」とか平気でいいよる。アホか、投げられんようになったら家業継いだらええ。それがプロちゃうんか、と。
(今の若い選手はすぐに「痛い」ということについて)甘いんですわ。よっぽどじゃない限り、僕らは痛いなんて口に出せませんでしたよ。投げられる痛さと、投げられない痛さを身体で覚えていた。痛いといって休んだら、あっという間にクビですからね。
と、今の若い選手に苦言を呈していた米田哲也さんですが、
これを”老害”と一蹴するのは容易いことですが、肘肩を痛めず無尽蔵のスタミナでNPB歴代2位の通算350勝を記録した米田哲也さんの投球フォーム(身体の使い方)を分析したら、もしかしたら、現在の野球でも大いに参考になるかもしれません。
「米田哲也は小学校低学年の時に往復10キロの砂浜を走り込んでいた!」
1956年、スカウトされて阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)に入団すると、翌年の1957年から19年連続2桁勝利を挙げ、現役生活22年で、通算350勝、3388奪三振という凄まじい記録を残した、米田哲也(よねだ …