1943年12月、帝京商業学校を卒業し、川崎市のヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職するも、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年、19歳で徴兵検査を受けさせられ、「第一乙種」とされると、程なくして入隊した、杉下茂(すぎした しげる)さんは、翌年の1945年には、中国に出兵したそうです。

「杉下茂はヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)のとき徴兵されていた!」からの続き

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行軍では地下足袋で1日40キロ10日近くも歩かされていた

1945年1月3日、杉下さんが所属した部隊は、福岡・博多港から輸送船で韓国・釜山へ渡り、釜山から列車に乗って移動したそうですが、

(制海権は失っていたことから、この移動はかなりの危険が伴っていたそうで、実際、次に出た船は潜水艦に沈められたのだそうです)

3日ほど揺られ、途中、よく分からない場所に降ろされると(おそらく満州国境を越えた辺り)、そこから、中国の武漢まで、1日40キロ、10日近くも歩かされたそうです。(十里行軍)

(深刻な物資不足だったことから、装備は十分ではなく、銃は模擬銃で、軍靴の代わりに地下足袋を履いて、毎日40キロ移動していたそうですが、とにかく寒く、本当に辛かったそうです)

新兵訓練での銃の実弾訓練では銃が重く肩が抜けたような感じがしていた

そして、10日ほど行軍し、ようやく武漢にたどり着くと、そこで初めて、本物の銃(三八式歩兵銃)と軍靴と水筒を支給され、ようやく兵隊の格好になったそうですが、それから、また数日歩き、最後は、巣県(現・安徽省巣湖市)の駐屯地に着いたそうです。

しかし、休む間もなく、新兵訓練が待ち受けており、杉下さんはここで初めて銃の実弾訓練を受けたそうですが、手ぬぐいを肩に挟んで撃つも、銃が重かったせいで、反動が大きく、よく肩が抜けたように感じることもあったそうで、

戦後には、戦争中に手りゅう弾を投げ過ぎたことにより肩を壊した野球選手の話を聞いたことがあったそうですが、銃も原因の一つだと思っているそうで、

手りゅう弾は結構、重いんです。だから野球選手はあれで肩を痛めたと思っている人も多いけど、私はむしろ銃だと思う。銃は運ぶのも重いし、撃つと反動がすごいんです。私は銃が下手で、軽機関銃の担当だった。

と、語っています。


前列右が杉下さん

銃の命中率が悪く上官から殴られていた

ちなみに、杉下さんは、特訓で銃の命中率が悪く、当たらなかったり、まごついたりしていたそうですが、上官から、よく、殴られ、蹴飛ばされたそうです。

また、駐屯地では競争意識を高めるため、中隊同士で銃の対抗戦が行われていたそうですが、負けると、上官に何をされるか分からなかったそうです。

配属された駐屯所は銃撃戦がなかったうえ食料も豊富で恵まれていた

それでも、杉下さんがいた「中支」という所は、銃撃戦がなく気候は温暖で、食料も豊富だったほか、(他の部隊では、理不尽ないじめや制裁があったそうですが)杉下さんの所属する部隊は家庭を持っている年配の人たちが多く、「19歳の兵隊が入ってきた」と歓迎されるなど、兵隊としては、本当に運が良かったのだそうです。

(当時、中国は北支、中支、南支に分かれていて、南支の重慶などは、中国軍との戦闘が激しく、ビルマ戦線はさらにひどかったそうです)

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駐屯所での一番の敵はコレラ(感染症)と生水だった

そんな中、駐屯所では、コレラ(感染症)と生水が一番の敵だったといいます。

というのも、飲料水は主に井戸水で、生で飲むことができなかったため、沸騰させなければならなかったそうですが、それでも、全部飲めるわけではなく、コップに入れると半分くらい沈殿物が出たことから、上澄みの部分を少しだけ飲める程度だったそうです。

ちなみに、現地の人は生水のまま飲んでも平気だったそうですが、日本人はすぐにお腹を壊したそうで、我慢できずに生水を飲んだ人は、薬がなかったことから、下痢が何日も続いた後、栄養失調で亡くなったそうで、

杉下さんは、

生水を飲んで下痢をしたら、それで終わり。隣に寝ている人が、日に日にやせ細っていく。知っているかい?人は栄養失調で死ぬとき、髪の毛の色が赤くなるんだ。

今の若い人みたいに赤っぽくなっていくと、死期が近い。おそらく、髪の色素が抜けていくのだと思うが、髪が赤くなった人と話すのは、本当につらかった

と、語っています。

「杉下茂の兄は沖縄戦で米艦に突撃して戦死していた!」に続く

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