1945年1月には、中国に出征するも、配属された「中支」は銃撃戦がなく、気候も温暖、食料も豊富で、他の部隊のように、理不尽ないじめや制裁もなく、恵まれていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、同年4月、所属していた部隊が上海近くの飛行場に異動となるも、そこでも、食料や衣類が豊富で恵まれていたそうですが、そんな中、お兄さんが沖縄戦で米艦に突撃して戦死したことを知らせる手紙を受け取ったといいます。

「杉下茂は19歳のとき徴兵され地下足袋で1日40キロ10日も行軍していた!」からの続き

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上海の飛行場(倉庫管理係)に移動となるも恵まれていた

銃撃戦がなく、気候は温暖で、食料も豊富だった「中支」の部隊に配属されていた杉下さんは、1945年4月には、部隊ごと上海近くの飛行場に異動となったそうで、6月頃から、前線の日本軍に送る貨物を扱う倉庫の管理をすることになったそうですが、ここでも、倉庫なだけあって、食料、衣類など武器以外は何でもそろっており、

(杉下さんは、幹部候補生試験に合格し、南京の予備士官学校へ移るはずだったそうですが、帝京商業学校から卒業を証明する書類が届かなかったため、南京には行くことができなくなり、上海で待機している間に、倉庫管理係となったのだそうです)

さらには、上海にはフランス租界があり、そこへ行けば何でも買えたことから、使用人にお金を渡してタバコやまんじゅうを手に入れていたそうです。

(※租界とは、アヘン戦争後に不平等条約により中国大陸の各地に設けられた、行政自治権や治外法権を持った外国人居留地のこと)

兄が沖縄戦で米艦に突撃して戦死

そんな中、杉下さんは、岐阜の叔母さんからお兄さんの死を知らせる手紙を受け取ったそうで、優しく、しっかり者で、(杉下さんよりも)野球がうまく、小さい頃からキャッチボールをしてくれたお兄さんがいなくなったことが、本当に悲しかったそうです。

ちなみに、お兄さんは2階級特進で少佐になったそうですが、杉下さんには、そんなことはどうでも良かったそうです。

(お兄さんは、海軍の「神雷部隊」に所属していたそうで、特攻のために開発された滑空機「桜花」(目標付近で母機から切り離され、機首に搭載した爆弾ごと体当たりするという作戦で用いられた機体)に乗って米艦に突撃したそうです)

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玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞き敗戦を知る

そして、1945年8月11日、いつものように倉庫番をしていると、私服の憲兵がトラックで乗り付け、「日本は負けましたので逃げます」と言い、倉庫から食料など物資を奪い、トラックに積んで逃げて行ったそうで、

杉下さんは、この言葉が信じられなかったそうですが、15日になり、玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞き、日本が戦争に負けたことを知ったそうです。

(ただ、玉音放送は雑音まじりでほとんど聞こえなかったそうです)

「杉下茂は終戦後は中国の捕虜収容所暮らしも恵まれていた?」に続く

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