1949年には、まだ高校に入学していないにもかかわらず、(中学3年で)春の選抜高校野球に出場すると、夏の甲子園にも主力打者として出場し活躍した、中西太(なかにし ふとし)さんは、1951年、高校3年生の時にも甲子園に出場しているのですが、初戦の岡山東高校戦では、甲子園1号となるランニングホームランを放ったそうです。

「中西太の高校時代は千本ノック等スパルタで鍛えられていた!」からの続き

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高3の時にも夏の甲子園に出場

キャッチャー出身の舛形博監督が、「野球の中心は、扇の要の捕手」という考えだったことから、高校2年生の時、一時的に三塁手から捕手に転向させられていたという中西さんですが、3年生になると、再び三塁手に復帰し、キャプテンに選ばれたそうで、

中西さん率いる高松一高は、香川県予選から快進撃を続け、土庄高校戦は7対0、小豆島高校戦は11対1、琴平高校戦は9対2、尽誠学園戦は11対10と勝ち進むと、決勝の高松商業高校戦も6対2で勝利。

その後、北四国大会の松山東高戦でも13対1と圧勝すると、続く、甲子園行きの切符をかけた決勝戦では、再び対戦相手となった高松商業高校を下し、「第33回全国高校野球選手権大会」に出場が決定したそうです。

西条北高校のエース・藤田元司にはいつも苦戦していた

ちなみに、愛媛の西条北高校には、後に監督として巨人を4度のリーグ優勝と2度の日本一に導いた、エース・藤田元司さんがいたそうで、中西さんは、速くてキレがあってコントロールもいい藤田さんの球を、いつも打ち損ねていたほか、練習試合で負けることもあったことから、甲子園出場までの最大の難関は西条北高校とにらんでいたそうですが、

西条北高校は、「北四国大会」で高松商業高校に敗れてしまい、藤田さんと対戦することは叶わなかったのだそうです。

(当時、四国は1県1代表ではなく、北四国代表1校と南四国代表1校の2校のみの出場で、中西さん対象の北四国代表は、香川大会上位校と愛媛大会上位校で北四国大会を行い決めていました)

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夏の甲子園初戦ではランニングホームラン

さておき、迎えた1951年8月14日、夏の甲子園での初戦、岡山東高校戦では、3回、やや横手を下げて投げる速球派の秋山登投手(後に大洋ホエールズ(現・DeNA))を攻め立て7点を奪うなど、序盤から引き離すと、7回、11対3とリードする場面では、4番・サードの中西さんが、左中間を割るランニングホームランを放ち、さらに1点を追加して、12対3で岡山東高を制したそうですが、

(このランニングホームランは、中西さんにとって、記念すべき甲子園第1号だったそうです)

対戦相手の岡山東高校の捕手・土井淳さん(後に大洋ホエールズ(現・DeNA))は、

秋山のカーブが外角にきた。それを中西は踏み込んで強引に引っ張った。けた外れでした。

と、語っています。

また、中西さんは、大会後、島根・出雲の招待試合でも、4打数4安打2本塁打と大活躍しているのですが、

その試合を目の当たりにした土井さんは、

すでに高校球界では凄いのがいると聞いてました。初めて中西を見たのは大会前の練習試合です。小太りだけど、体が柔らかく、足も速くてね。そのときは我々が勝った。

その年のセンバツ準優勝校の鳴尾(兵庫)にも勝ったので自信をもったんでしょうね。甲子園の高松一戦も「いけるぞ!」となった。でも初めての甲子園で、秋山も四球、四球で、みんながあがってしまった。

私たちのゲーム前、高松一が地元の高校と対戦しているのを見たんです。ホームランの1本は、スタンド後方の2階建ての家に飛び込んだ。まさに「怪物」です。その遠征は旅館が一緒で、中西は庭で裸になってスイングをしてるんです。すごい迫力でした。

とも、語っています。

「中西太は高3の甲子園で2試合連続でランニングホームランを打っていた!」に続く

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