1951年、3年生で出場した夏の甲子園の初戦、岡山東高校初戦では、甲子園第1号となるランニングホームランを放った、中西太(なかにし ふとし)さんは、準々決勝でも(2試合連続の)ランニングホームランを放ったといいます。

「中西太は高3の甲子園でランニングホームランを打っていた!」からの続き

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福島商業高校戦では体調不良も2試合連続となるランニングホームラン

1951年、3年生で迎えた夏の甲子園での初戦、岡山東高校戦では、ランニングホームランを放ち、勝利に貢献した中西さんですが、中1日おいて行われた8月16日の福島商業高校戦は、発熱と震えに襲われ、試合前練習に行くことができず、医務室で休んでいたそうで、

そのため、スタメン表を提出するギリギリまで出場を悩んだそうですが、キャプテンとしての責任感もあり、強行出場すると、6回、2試合連続のランニングホームランを打ったそうで、結果、2対0で勝利したそうです。

そして、準々決勝の芦屋高校(兵庫)戦では、中西さんは、4打数1安打(二塁打1本)に終わったそうですが、チームは6対2で快勝したのだそうです。

(ちなみに、芦屋高校戦、1回一、二塁の場面で打席が回ってきた中西さんは併殺に倒れているのですが、中西さんの打球を正面で捕った二塁手の橋本選手は、弾丸ライナーの勢いで後ろにひっくり返ったといいます)

最後の夏の甲子園は準決勝で敗退

しかし、準決勝の平安高等学校(京都)戦では、エースの清水宏員投手に8回まで0点に抑えられていたそうで、0対4とリードされていた9回には、ランナー一、二塁で、4番の中西さんに打順が回ってくると、左越え二塁打を放つのですが、これがエンタイトルツーベースとなったことから、1点止まり。

それでも、その後、さらに2点を返し、1点差まで迫るのですが、あと1本が出ずに、結局、3対4で負け、中西さんの高校3年生の夏は終わったのでした。

ちなみに、中西さんは、

あれがエンタイトルツーベースでなければ、少なくとも同点になっていた

と、語っています。

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高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だった

その後、高校卒業後の進路を考える時期になると、中西さんは、学生野球指導者で新聞記者だった飛田穂洲さんに早稲田大学進学を勧められたそうですが、

(野球部顧問の舛形博監督が早稲田大学OBだったことから、指導者も早稲田関係者が多く、自然と早稲田を目指すようになったという話も)

そんな中、同じく高松中出身で早稲田大学OBだった、西鉄ライオンズの三原脩監督が、「早慶戦を見たいのであれば、東京へ連れて行ってやる」と言っていると、人づてに聞き、上京したのだそうです。

(ちなみに、上京すると、三原監督には、銀座で天ぷらをごちそうになったそうですが、そのおいしさにびっくりしたそうです)

「中西太は三原脩監督に誘われ高卒で西鉄ライオンズに入団していた!」に続く

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