1963年、阪神タイガースの一軍投手コーチ兼ヘッドコーチに就任すると、ノーコンで解雇寸前だったジーン・バッキー投手を徹底的に指導して阪神のエースに育て上げ、
1975年には、巨人の一軍投手コーチに就任すると、1976年、1977年と、チームの2連覇に貢献するなど、コーチとしても素晴らしい功績を残した、杉下茂(すぎした しげる)さん。
今回は、そんな杉下茂さんの監督・コーチ時代の経歴を時系列でご紹介します。
「【画像】杉下茂の若い頃はフォークの神様!ルーキーから現役引退までの成績は?」からの続き
杉下茂は38歳の時に阪神の一軍投手コーチ兼ヘッドコーチに就任し解雇寸前だったジーン・バッキー投手に徹底指導をしチームの優勝に大きく貢献していた
1961年、36歳で現役を引退した杉下茂さんは、翌年の1962年には、大毎オリオンズの一軍投手コーチに就任すると、3人の10勝投手を輩出しているのですが、この年の最終戦終了後、すぐに辞表を提出したそうで、
1963年、38歳の時には、高校時代からの恩師・天知俊一さんの勧めで、阪神の一軍投手コーチ兼ヘッドコーチに就任。
すると、阪神では、コントロールが悪く解雇寸前だったジーン・バッキー投手を、身体の使い方から投球方法まで徹底的に指導したそうで、結果、ジーン・バッキー投手は、1964年には、29勝、防御率1.89と、最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得して、チームのリーグ優勝に大きく貢献したのでした。
1961年、大毎オリオンズで現役引退後、1962年には大毎オリオンズの一軍コーチに就任していた、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1963年には、高校時代からの恩師・天知俊一さんの一言で阪神タイガースの投手コーチをす …
杉下茂は40歳の時に阪神タイガースの監督に就任していた
杉下茂さんは、その後、1965年には、ヘッドコーチ専任となると、同年10月初旬、藤本定義監督が辞任を申し出たことから、杉下茂さんが監督に昇格しているのですが、
(藤本定義前監督は総監督に就任したそうです)
野田誠三オーナーからは、”若手登用”と”世代交代”を厳命されていたそうで、若手を主軸に起用すると、ベテラン選手からは不満の声が上がり、随分、苦慮したといいます。
阪神の監督に就任した杉下茂さん(左)と藤本定義総監督(右)。
1963年、阪神の一軍投手コーチに就任すると、解雇寸前だったジーン・バッキー投手を鍛え上げたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、ヘッドコーチに昇格すると、1965年の10月には、監督に昇格するのですが、野田 …
杉下茂は40歳(阪神監督就任1年目)の時にアウトがセーフに覆る判定に対して抗議せず選手達の怒りを買っていた
そんな杉下茂さんは、監督就任1年目の1966年8月10日の巨人戦では、巨人の攻撃で5回裏二死満塁という場面、三走の黒江透修選手が本盗し、一旦はタッチアウトとなるも、
巨人の牧野三塁コーチがすぐに、阪神・権藤博投手の二段モーション気味のフォームがボークだと猛抗議すると、判定が覆ったそうで、これに対し、阪神の選手たちは大激怒。
ただ、杉下茂さんはというと、抗議には出たものの、説明を少し聞いただけで引き上げ、怒り心頭となっている選手たちには何も説明しなかったことから、選手たちの怒りを買ったのでした。
阪神タイガースの監督に就任するも、野田誠三オーナー(電鉄本社社長)からは、「若手登用」と「世代交代」を厳命され、若手を主軸に起用すると、ベテラン選手からは不満の声があがっていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、ア …
杉下茂は40歳(阪神監督就任1年目)のシーズン途中で突然監督を解雇されていた
そんな中、杉下茂さんは、1966年シーズン途中の8月13日、滞在先の広島の旅館で、突然、監督解雇を言い渡されたといいます。
阪神の監督に就任するも、「若手登用」と「世代交代」を厳命され、ベテラン選手から反感を買っていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、8月には、ベテラン選手を交えて、今後の展望について語り合ったそうですが、翌日には、野 …
杉下茂は42歳の時に2度目の中日ドラゴンズの監督に就任するもシーズン途中で突然解雇されていた
その後、杉下茂さんは、1968年には(杉下茂さん42歳)、1959年~1960年以来、2度目の中日ドラゴンズの監督に就任するのですが・・・
またしても、シーズン終了を待たず、同年8月に監督を解任されています。
1966年、阪神の監督に就任するも、1年目のシーズン途中に解任された、杉下茂(すぎした しげる)さんは、1968年には、古巣・中日ドラゴンズの監督に就任するのですが(1959~1960年以来2度目)、またしても、1年目の …
片岡宏雄捕手(左)にアドバイスする中日監督時代の杉下茂さん(右)。
杉下茂は50歳の時に巨人の一軍投手コーチに就任するとチームの2連覇に貢献していた
その後、杉下茂さんは、1975年、50歳の時、巨人の一軍投手コーチに就任すると、
巨人の一軍投手コーチに就任し長嶋茂雄監督(左)と握手する杉下茂さん(右)。
1976年、1977年と、巨人の2連覇に貢献するのですが、
1976年、クライド・ライト投手(左)に指導する巨人投手コーチ時代の杉下茂さん(右)。
チームは、1978年には、ヤクルトに敗れてリーグ優勝を逃し2位、1979年には5位と成績が低迷し、1980年、長嶋茂雄監督が、突然、監督を解雇されると、杉下茂さんも投手コーチを退任しています。
1966年には、阪神タイガースの監督に就任するも、そのシーズンの途中で解任となると、1968年には、中日ドラゴンズでも、監督に就任したシーズンの途中で解任されたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1975年には …
杉下茂は68歳の時に西武ライオンズの一軍投手コーチに就任するも翌年に退任していた
その後、杉下茂さんは、TBSの野球解説者を経て、1993年、68歳の時には、西武ライオンズの一軍投手コーチに就任するのですが、翌年の1994年には退任しています。
1966年には、阪神タイガースの監督に就任するも、そのシーズンの途中で解任となると、1968年には、中日ドラゴンズでも、監督に就任したシーズンの途中で解任されたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1975年には …
いすゞ自動車時代、太平洋戦争への召集・復員を経て、1949年、中日ドラゴンズに入団すると、快速球とフォークボールを武器に、2年目の1950年から6年連続20勝以上をマークし、 1954年には、最多勝32勝でリーグ優勝&日 …