1952年、高松一高から西鉄ライオンズに入団すると、ルーキーイヤーから111試合に出場して、2割8分1厘、12本塁打、65打点、16盗塁の成績で新人王に輝き、その後も、4年連続を含むホームラン王5回、首位打者2回、打点王3回という、素晴らしい成績を収めた、中西太(なかにし ふとし)さんですが、12歳の時には、奇跡的に空襲から逃れて生き残っていたといいます。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

中西さんは、1933年4月11日生まれ、
香川県高松市の出身、

身長174センチ、
体重93キロ、

学歴は、
松島小学校
⇒高松一中(※旧制中学校・・・後に高松一高)

(高松一中は1948に学制改革により高松一高となっています)

ちなみに、「中西太」は本名で、愛称は「太っさん」「太」です。

幼少期は野菜の行商をする母親に女手一つで育てられた

中西さんは、手押し車に野菜などを積んで歩く行商で生計を立てていたお母さんの小浪さんのもと誕生すると、母子家庭で育ったそうで、生活は苦しく、親類の農家から米を分けてもらっていたそうです。

そんな中でも、お母さんが工夫して作ってくれた、手打ちうどん、豆腐、あげ、野菜で調理したおかずは、ご馳走だったそうです。

ちなみに、幼い中西さんも、お母さんの手伝いをしていたそうですが、

中西さんは、

なすびのヘタ剥きをしているとき、ナイフで指をザクッと切ったことがある。あれで指が落ちとったら野球はできんかったかもしれんね

と、語っています。

(お母さんは、毎朝午前3時か4時に家を出て、春はたけのこを堀り、秋にはなすびのヘタを取り除くなどして、野菜の行商をしていたそうですが、それだけでは生計は成り立たず、家族を養うため、神戸などに遠出することもあったそうです)

少年時代(12歳の時)に空襲を経験

そんな中西さんは、12歳だった、1945年7月3日午後11時、お母さんがお姉さんのところに手伝いに行っていたため、一人で留守番をしていると、突然、空襲警報が鳴り始めたそうで、

何かあった時はこれをもって逃げるよう、お母さんに教えられていた荷物をかついで、家の外に飛び出すと、家の前にあった防空壕に入ったそうですが、

最初は、いつもの訓練かと思っていたそうですが、「ドンッ!」と爆弾が落ちる音が聞こえたことから(今橋駅近くの食堂に爆弾が落ちたのだそうです)怖くなって防空壕を出て、道をゆく大勢の大人たちの列についてゾロゾロと歩いたのだそうです。

(市街地は、火の雨が落ち続けて、たちまち火の海に包まれたそうで、怯えた馬が暴れ出し、人々は散り散りばらばらになっていたそうです)

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防空壕にいたままだと死んでいた

すると、気がつくと、塩田の隣にある畑にポツンと一人で座っていたそうで、目の前に広がった塩田には、暗がりの中、容赦なくあたりを照らすような砲弾が「ダーッ」と音を立てて落ち続けており、それを黙って見ていたのだそうです。

(とにかく、はぐれないように、列に連なって歩いていたそうで、どこをどう歩いたか覚えていないそうです)

そして、しばらくして、家に戻ると、家はかろうじて残っていたそうですが、狭い防空壕は消失していたそうで、

中西さんは、

そこに逃げ込んだままだったら今はない。親友も亡くなった。よく生き延びたと思う。住めるようなものではなかったが、2階建ての借家はかろうじて残っていた。運が良かったとしか言いようがない。

と、語っています。

(中西さんの住む高松は、7月3日午後11時に空襲警報が鳴り始めると、日付が変わった翌7月4日午前2時56分を境に、米爆撃機「B29」に狙われ、高性能爆弾24トンと焼夷(しょうい)弾809トンが落とされたそうで、市街地の約80%が消失して焼け野原になったそうです)

「中西太は少年時代から強打者だった!」に続く

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