1958年秋、日米野球で、アメリカ・大リーグのドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)選手が、球が来るずっと前に捕球姿勢を整え、丁寧に処理しているのを見て、「これだ」と思い、それをお手本に練習に励むと、手応えを感じるようになったという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、やがて、華麗でありながら堅実な守備が高く評価されるようになっていったそうですが・・・

「広岡達朗はドン・ブレイザーの堅実な守備をお手本にしていた!」からの続き

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ドン・ブレイザーをお手本にリーグを代表する遊撃手に成長

1958年秋、日米野球で、アメリカ・大リーグのドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)選手の堅実なプレーを見て、準備の大切さに気づき、それをお手本に練習に励むと、手応えを感じるようになってきたという広岡さんは、

やがては、大阪(阪神)タイガースの吉田義男さんと共に、リーグを代表する遊撃手と評価されるようになったそうで、守備の堅実さと華麗さを吉田さんと競い合うようになっていったそうです。

川上哲治が監督になると、これまでのことを水に流して協力してほしいと頭を下げられていた

そんな中、1961年11月19日、水原茂監督が辞任し、川上哲治さんが巨人の監督に就任します。

すると、川上さんからは、

俺はこれまで迷惑を掛けた。周りの練習時間も奪って悪かった。この際、水に流して協力してくれ

と、頭を下げられたそうで、

広岡さんは、これを聞き、まだ28歳の自分に、なんて立派なことを言うのかと思い、

水に流すも何も大丈夫です。私は巨人が好きで一生懸命やっているのですから

と、答えたのだそうです。

川上哲治に早稲田大学の同窓・荒川博をコーチにするよう進言していた

また、広岡さんも、コーチ兼任選手となり、1962年には、前年(1961年)、毎日大映オリオンズ(通称・大毎オリオンズ 現・ロッテ)で現役生活を終えたばかりだった、早稲田大学の同窓の荒川博さんを、コーチとして使うよう、川上さんに進言、推薦すると、

(荒川さんは、現役中から、チームメイトで高校の後輩でもあった榎本喜八さんを指導し、天才左バッターと言われるまでに育て上げていました)

川上さんは、荒川さんとはほとんど面識がなかったそうですが、「あの榎本を教えた人物なら」と、広岡さんの進言に従ったのだそうです。

ちなみに、荒川さんは、後に、

プライドの高い広岡が、犬猿の仲の川上に頭を下げてくれた。広岡には感謝してもしきれない。今でも深い恩義がある

と、語っています。

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ミーティングでは川上哲治に恥をかかせたことも

しかし、広岡さんは、ミーティングでは、川上さんが提案した作戦を、「検討しましょう」と答えればいいものを、「こんなのできません」と反発して、川上さんに恥をかかせたこともあったそうで、

やはり、二人の関係は、良くはならなかったのだそうです。

(それでも、チーム自体は強く、1962年、巨人は2年ぶりのリーグ優勝と、6年ぶりの日本一になったそうです)

「広岡達朗は長嶋茂雄のホームスチールに激怒し試合途中で帰宅していた!」に続く

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