大好きだった長兄と同い年だった川上哲治さんに、不思議な縁を感じ、親しみを持っていたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、その感覚のまま、甘えて接していたことから、川上さんに疎まれていたそうですが、その後、記者に、川上さんの守備を下手クソと言ってしまうと、それ以来、川上さんには、現役を引退するまで、いじめら続けたといいます。

「広岡達朗は巨人入団当初に川上哲治を怒らせていた!」からの続き

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川上哲治は試合中でも胸付近の送球しか捕らなかった

当時、巨人の正遊撃手だった平井三郎さんに、頼み込んで教えてもらったことにより、何とか打撃は良くなったという広岡さんですが、一方、守りの方は一向に上達せず、イレギュラーしたゴロは捕れず、送球も、上手からだけで横手では投げられなかったそうで、

練習中、一塁手の川上哲治さんや二塁手の千葉繁さんには、

俺はこの辺り(胸付近)しか捕らないからな

と、強く言われ、

特に川上さんは、投げ誤ると、練習中ならまだしも、試合でも本当に捕ってくれなかったそうです。

洋松ロビンス戦で9回裏2死の時にもジャンプすれば捕れる球をファーストの川上哲治は捕らなかった

そんな中、1954年4月27日、西京極球場での洋松ロビンス(現・DeNA)戦、9回裏、巨人が8対4とリードしている場面で、2番手の中尾碩志投手が、簡単にツーアウトを取り(2死走者なし)、次の打者もショートゴロに打ち取り、試合終了かと思われた次の瞬間、ショートの広岡さんが、一塁に悪送球してしまったそうですが、この時も川上さんは捕ってくれなかったそうです。

(悪送球といっても大暴投ではなく、ちょっとジャンプすれば捕れる球だったそうです)

しかも、この後、内野安打で、一、二塁となり、その次の打者の時、また、ショートの広岡さんにゴロが飛んできて、今度こそ試合終了と思われたところ、またしても、広岡さんが一塁に悪送球してしまい、1点を失うと(8対5)、たまらず、中尾投手は次の打者を四球で出し満塁。

ここで、3番手の笠原正行投手が登板するのですが、笠原さんは次の打者の青田昇さんに逆転満塁ホームランを打たれ、巨人はサヨナラ負けしてしまったのだそうです。

思わず記者に川上哲治のことを「下手くそ」と言っていた

そして、広岡さんが、ショックでとぼとぼとベンチに向かって歩いていると、馴染みの新聞記者が寄って来て、「えらいことしましたね」と言ったことから、広岡さんは、「申し訳ないことをしてしまった・・・」と答え、うなだれたそうですが、

その後、思わず、

ファーストが下手クソじゃけ、あれくらい捕ってくれにゃあ野球はできんけぇのぉ

と、(自分の失敗を棚に上げて)広島弁で、川上さんの批判をしてしまったそうで、

それが、翌日の新聞にデカデカと載ってしまい、これを契機に川上さんの態度がはっきり変わったそうで、以来、広岡さんは、長きに渡って、川上さんから冷たくされたのだそうです。

(さらには、「打撃の神様」と称された川上さんを、一介の新人である広岡さんが痛烈に批判したことで、巨人軍にも不穏な空気が蔓延し始めたのだそうです)

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川上哲治へは、慕っていた分、憎しみが倍増していた

ちなみに、広岡さんは、後に、川上さんのことを、

確かにバッティングの練習は“神様”と呼ばれるだけあって凄まじかった。調子が悪くなると、二軍の投手を2、3人引き連れて、多摩川で2、3時間も打ち続けるんだ。

『おい、ヒロ、わかったぞ。来た球を打てばいいんだ』って話していたこともあった。打撃練習では持ち時間など気にせず好きなだけ打つが、そのくせ守備練習は一切しないから下手クソなままだった

と、語りつつも、

今ならあんなことは言いません。自分がまいた種で、私に責任がある。川上さんは長兄と同い年。その感覚のまま甘えて接していたようなところもあった。

と、語っているのですが、

その直後には、

いや~巨人時代の13年間はいじめられたよ、でもよくやったと思う

と、一瞬、何か思い詰めたような顔をすぐさま打ち消し、目尻を垂らして笑いながら語ったそうで、

今もなお、川上さんに対しては様々な思いがあるのかもしれません。

(広岡さんは、後に、広島でのコーチ生活を終えた後、密かに川上さんの自宅を訪れ、巨人時代の非礼をわびたそうです)

「広岡達朗はドン・ブレイザーの堅実な守備をお手本にしていた!」に続く

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