1961年、大毎オリオンズで現役引退後、1962年には大毎オリオンズの一軍コーチに就任していた、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1963年には、高校時代からの恩師・天知俊一さんの一言で阪神タイガースの投手コーチをすることになると、解雇寸前だったジーン・バッキー投手を鍛え上げたといいます。

「杉下茂は中日監督辞任後に大毎オリオンズで現役復帰していた!」からの続き

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恩師・天知俊一の一言で阪神の一軍投手兼投手コーチに就任

1961年に大毎オリオンズで現役を引退した杉下さんは、翌1962年には、大毎オリオンズの一軍コーチに就任すると、菅原紀元投手、若生智男投手、坂井勝二投手とタイプが異なる10勝投手を3人輩出したそうですが、最終戦終了後には辞表を提出したそうです。

そして、翌年の1963年には、高校時代からの恩師・天知俊一さんに呼び出されて東京・新橋の料亭へ行くと、阪神タイガースの監督・藤本定義さんを紹介されたそうで、

天知さんから、

スギな、オレの野球はなかなかいいが、この藤本さんの野球はすごいよ。一度修行をして来なさい

と、言われ、

阪神の一軍投手兼投手コーチに就任したのだそうです。

エース・小山正明を放出後、解雇寸前だったジーン・バッキーを鍛えていた

すると、阪神は、1963年12月、エース・村山実投手と両輪の活躍をしていた小山正明投手を大毎オリオンズに放出(トレード)したことから、

(小山正明投手はMVPの選考から漏れたことですっかりやる気を失っていたそうで、エース投手が欲しかった大毎オリオンズの永田雅一オーナーがそれを聞きつけ、阪神側に申し入れると、阪神は、巨人、中日に対抗するため、打線の強化を求めており、「榎本喜八か山内との交換なら」と返答したそうで、小山正明投手と山内一弘選手の「世紀のトレード」が成立したのだそうです)

杉下さんが、小山投手の穴埋めとして、解雇寸前だったジーン・バッキー投手に目をつけ、戸沢一隆球団社長に、

鍛えてダメならクビにしましょう

と、訴えると、戸沢社長はこの提案を了承したそうで、

杉下さんが、春季キャンプ中、バッキー投手に身体の使い方から投球方法まで徹底的に指導すると、バッキー投手は、1964年、29勝、防御率1.89で、最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得して、チームのリーグ優勝に貢献したそうで、

杉下さんは、

特訓に次ぐ特訓。あれほどやらせたのは僕としては珍しい

と、語っています。

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藤本定義監督は長期的にローテを編成し「負け試合」を作っていた

ちなみに、杉下さんは、藤本定義監督について、

試合の負けを計算する人でした

当時は村山実、バッキーがいて、投手コーチの私は一年間のローテを開幕前に組まされるんです。雨が降ったら全部やり直し。そうやって投手を使っていっても、どうやっても底をつく時がある。そうなるとこの試合はもう、ここら辺で負けだなと。しょうがないなと。そんな風な感じですよね

と、語っており、

当時は、前日に完投したエースが、翌日にリリーフ登板していた時代だったそうですが、藤本監督は予め長期的にローテを編成し、時には「負け試合」を作っていたのだそうです。

(藤本監督は、巨人・阪神の両球団で監督を務めた唯一の人物で、「伊予の古狸」と称されるほど、知略、知謀に長けていたそうです)

「杉下茂の阪神監督1年目は野田誠三オーナーから若手起用を厳命されていた!」に続く

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