1958年のシーズン終了後、33歳にして、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)に就任した、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、2年で監督を辞任すると、次の年には、なんと、大毎オリオンズで現役復帰を果たしたといいます。

「杉下茂は33歳で兼任監督就任要請を受けるも実質的には監督専任だった!」からの続き

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監督就任1年目は2位

1958年のシーズン終了後、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)の就任要請を受け、承諾した杉下さんは、1959年、中日監督就任1年目に、江藤慎一選手・河村保彦投手・板東英二投手、水谷寿伸投手ら13名の若手選手を入団させると、

伊奈努選手、児玉泰選手、大矢根博臣選手、吉沢岳男選手など、若手をスタメンで起用し、野手も、捕手で入団した江藤慎一選手を一塁で起用するほか、入団2年目の前田益穂選手を三塁や遊撃に抜擢するなど、チームの若返りを図り、4月は首位の巨人と4ゲーム差ながらも2位につける好スタート。

6月にはベテランの引退が響き、4勝14敗と負け越して、最下位の大洋と0.5ゲーム差の5位に転落するも、8月と9月にはそれぞれ5連勝するなど、夏場以降持ち直し、5連覇の巨人には13ゲーム付けられたものの、阪神と共に同率2位となります。(成績は64勝61敗5分)

監督2年目は5位に転落し監督を辞任

しかし、監督2年目の1960年は、大矢根博臣投手や板東英二投手、森徹選手や岡嶋博治選手の活躍で、8月の時点では、首位の大洋と1.5ゲーム差の2位につけるも、9月以降は投手陣が崩れて負けが込み、8連敗を喫するなど終盤は5勝15敗の借金10で一気に5位に転落して(成績は63勝67敗)、大洋の初優勝を許してしまい、

杉下さんは、シーズン終了後、責任を取って監督を辞任しています。

毎日大映(大毎)オリオンズで選手として現役復帰していた

そんな杉下さんは、かねてから、パ・リーグの毎日大映(略称・大毎)オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から選手としてオファーされていたそうで、1960年12月17日には、東京帝国ホテルで大毎の永田雅一会長と会談を持つと、正式に大毎入りが決定。

なんと、2年間のブランクがあるにもかかわらず、選手として現役復帰を果たしたのでした。

(杉下さんは、中日監督時代、名目は兼任監督だったのですが、一度も投手としての登板はしておらず、実質的には監督専任でした)

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毎日大映(大毎)オリオンズ時代は遊んでいた?

ちなみに、杉下さんによると、永田オーナーに「遊んでおれ」と言われていたことから、どうせマウンドに立つならと、中日時代にできなかったことに挑戦しようと考え、投手ゴロから始め、一塁ゴロ、二塁ゴロ、左翼フライ、中飛、右飛とポジション順に打者を打ち取ろうとしたことがあったといいます。

また、当時、エースだった小野正一投手とベンチで、

カウント0-3から打者3人をショートゴロで打ち取ってみよう

という話になったこともあったそうで、

「大丈夫ですか」と心配する小野投手を横目に「こういうことができるのが投手の特権」と、最初の打者を0-3から遊ゴロに仕留め、2人目も遊ゴロに打ち取ったそうですが、

3人目に捕手へのファウルフライを打たれて失敗すると、宇野光雄監督に「3人も続けて0-3になるとは杉下もへばったようだ」と言われて、降板させられそうで、結局、この年は4勝しか出来ず、同年限りで現役を引退したのでした。

「杉下茂は阪神投手コーチ時代ジーン・バッキーを鍛えていた!」に続く

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