1977年11月22日に行われたドラフト会議でクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から1位指名されるも、本拠地が九州であることを理由に入団を拒否した、江川卓(えがわ すぐる)さんは、大学卒業後は、翌年のドラフト会議まで1年間、アメリカの大学に野球留学していたといいます。
「江川卓は1977年ドラフトでクラウン(西武)に1位指名されるも入団拒否していた!」からの続き
江川卓は法政大学卒業後は翌年のドラフトまで南カリフォルニア大学に野球留学していた
1977年11月22日に行われたドラフト会議では、クラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に1位指名されるも、入団を拒否した江川さんは、大学卒業後は、母校・作新学院高校の職員として、1年間、アメリカの大学の野球部に野球留学することしたそうで、
(江川さんが社会人野球チームに入らなかったのは、社会人野球は、入社後最低2年間は在籍しなければドラフトにかからない規則があり、2年は長すぎるとして、翌年もドラフト指名が可能な野球留学を選択したのだそうです)
船田事務所を通じて南カリフォルニア大学の野球部と交渉し、同大にて練習生として参加することが認められると、1978年3月、法政大学卒業後の4月、野球留学のため、渡米します。
(江川さんは、母校の作新学院高校の理事長であり地元出身の国会議員・船田中氏に、ドラフト会議後のプロ球団との交渉を一任していました)
江川卓はクラウンライター・ライオンズを引き継いだ西武ライオンズ(関東の球団)から入団交渉されるも入団を拒否していた
そんな中、この年(1978年)の10月12日、クラウンライター・ライオンズは、運営会社である福岡野球株式会社が国土計画に球団の経営権を譲渡し、球団名を「西武ライオンズ」に改めると、新生西武は本拠地を福岡県の平和台球場から、埼玉県所沢市に建設中の新球場に移転することを発表。
そこで、(クラウン・ライターから江川さんの交渉権を引き継いだ)新球団社長・宮内巌氏(西武グループ総帥・堤義明氏の番頭格)は、同年11月12日、引き続き、江川さんとロサンゼルスで入団交渉を行うのですが・・・
11月20日、宮内球団社長は、池袋の球団事務所で午後5時より記者会見を行うと、
江川君とロスで直接交渉したとき、巨人入りの意思が想像以上に強固なものと感じとった
と、江川さんの獲得を断念したと正式に発表。
西武は、同日深夜0時をもって、江川さんとの交渉権が喪失したのでした。
江川卓は1978年のドラフト会議直前に父親から「巨人に入れるかもしれないから早く帰国するように」と連絡を受けていた
こうして、(1978年11月22日に)予定されているドラフト会議を待つ身となった江川さんは、当初は、留学先のロサンゼルスで22日のドラフト会議の結果を聞き、26日頃に帰国する予定だったそうですが、
(ドラフト会議終了直後に現地のリトルトウキョウの日本食レストラン「ほり川」で記者会見を行う予定も組まれていたそうです)
11月17日午後10時半過ぎ、突然、ロサンゼルスのアパートに、お父さんから電話がかかってきて、
卓、すぐに日本に帰ってこい
と、言われたそうで、
何か良くないことでも起こったのだろうかと、江川さんが慌てて「どうしたの?」と聞くと、
お父さんは、
巨人に入れるかもしれないんだ
と、言ったそうで、
江川さんは、自分の耳を疑い、ドラフト制度があるにもかかわらず、そのドラフト会議が行われる前から巨人に入れるかもしれないということに驚いたそうです。
そこで、江川さんは、もう一度、どういうことかと聞き返したそうですが、
お父さんには、
それは帰るまで説明できない。いいから明日の飛行機に乗れ
と、言われたそうで、
江川さんは、なおも食い下がったそうですが、お父さんには、とにかく帰ってくるように言われ、電話をガチャンと切られたのだそうです。
「江川卓は1978.11.21はどの球団とも契約できると聞き驚いていた!」に続く