小学校に入学した年、戦争の色が濃くなるも、幸い、空襲らしい空襲には遭わずに済んだという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、敗戦後、流行り始めた野球に、たちまち夢中になったそうです。

「長嶋茂雄の少年時代は小柄で足が速かった!」からの続き

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小学4年生の時に玉音放送を聞いて終戦を知る

長嶋さんは、1945年8月15日の玉音放送(天皇の肉声の放送)をラジオで聞いたそうで、ラジオから流れる言葉は難しく、まだ小学4年生だった長嶋さんには理解できなかったそうですが、大人たちのただならぬ動きから、戦争に負けたことを理解したそうです。

(とはいえ、長嶋さんは、相変わらず、のんびりと印旛沼(いんばぬま)へ出かけていっては、越中ふんどし一丁で遊び回っていたそうです)

敗戦後は野球に夢中になる

そんな中、戦時中には敵性スポーツとして白い目で見られていた野球が、長嶋さんの住む佐倉一帯で流行りだしたそうですが、

長嶋さんは、世の中にはこんなおもしろい遊びがあったのかと、水遊びや竹馬などよりも、野球に夢中になり、のめり込んでいったそうです。

千葉県は野球と縁が深い土地だった

ちなみに、千葉県は野球と縁が深い土地で、旧制一高(第一高等学校)の伝説的な名投手・守山恒太郎さんが少年時代を過ごした場所でもあったそうで、

守山さんは、1901年5月、横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れると、その後、月明かりの夜、一塁側グラウンドの後方にあったレンガの塀を相手にピッチング練習をして5寸(15センチ)の大穴を空けるほか、

あまりにも無茶な練習をして左腕が曲がってしまうも、「なにくそ!」とその腕を桜の木の枝に吊るして矯め直してしまったという、ものすごいガッツの持ち主だったそうです。

(守山さんは、その後、東京帝国大学医学部を卒業して軍医になるも、伝染病研究所で研究中に腸チフスに感染し、31歳で他界されています)

お兄さんに誘われて野球チーム「ハヤテ・クラブ」で球拾いをしていた

さておき、長嶋さんは、お兄さんの武彦さんが、臼井町の青年団の若い衆がつくった野球チーム「ハヤテ・クラブ」に入っていたことから(レフトを守っていたそうです)、時々、「茂雄もくるか?」と誘われ、球拾いをしたそうですが、

外野でボールを追いかけている合間に、青竹を切って作った手製のバッドで、見よう見まねでスイングをするなど、とにかく、球拾いであろうと何であろうと、野球が楽しくて仕方がなかったそうです。

(物が不足している時代だったため、ユニフォームもろくにそろっていなかったほか、時々、野良着姿のおじさんが、「俺にも打たせろ」と飛び入りしてくるような、のどかなチームだったそうですが、それでも、「ハヤテ・クラブ」という立派な名前がついていたそうです(当時は、草野球チームでも、みな、立派な名前がついていたそうです))

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お父さんに新品のグローブを買ってもらい嬉しくてたまらなかった

そんな長嶋さんは、お兄さんが持っていた本皮製のグローブの、皮特有のツンとする匂いとしなやかな手触りがうらやましくてたまらなかったそうですが、

ある日のこと、朝起きると、長嶋さんの枕元にそっと新品のグローブが置かれてあったそうで、

長嶋さんが、思わず、

これぼくの?

と、お父さんに聞くと、

お父さんは、

そうだよ。茂雄があんまり熱心だからな、千葉市へ行ったついでに買ってきたんだよ

と、言ったそうで、

長嶋さんはうれしくてたまらず、それからというもの、雨の日でも、お兄さんを引っ張り出してキャッチボールをしたのだそうです。

(そのグローブは、お兄さんが持っているような本皮ではなく、薄いグリーンの布製で、ボールを受けるポケットにだけ皮を使ってあるグローブだったそうですが、まだ小学生で手の小さかった長嶋さんに合いそうなグローブは、このタイプのものしかなかったそうです)

「長嶋茂雄が少年時代は野球ボールを手作りしていた!」に続く

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