1977年11月のドラフト会議でクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から1位指名されるも、入団を拒否した、江川卓(えがわ すぐる)さんは、大学卒業後は、アメリカの大学に野球留学しながら、翌年のドラフト会議を待っていたそうですが、1年後の1978年11月のドラフト会議直前、お父さんから、「巨人に入れるかもしれない」と、急遽、帰国するよう連絡があり、翌日、帰国すると、お父さんから、1978年11月21日はどこの球団とも自由に契約ができる(つまり巨人と契約ができる)と伝えられ、驚いたといいます。

「江川卓はアメリカに野球留学(南カリフォルニア大学)していた!」からの続き

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江川卓はアメリカから帰国後は後見人・船田中衆議院議員の秘書の蓮実進邸で一晩を過ごしていた

江川さんは、お父さんから帰国命令が下った翌日(1978年11月20日)、急遽、成田空港着の日航機61便で帰国の途に就いたそうで、(定刻より32分遅れの)午後5時2分に成田空港に到着すると、空港まで迎えに来た、後見人で作新学院理事長の船田中衆議院議員の秘書・大島孝氏と蓮実進氏の車(大島氏が運転)に乗り込んだそうで、

(江川さんは、母校の作新学院高校の理事長であり地元出身の国会議員・船田中氏に、ドラフト会議後のプロ球団との交渉を一任していました)

午後7時35分に東京・南青山の船田氏の邸宅に到着すると、船田氏に帰国の挨拶と留学の成果を報告し、その後、近くの蓮実氏の自宅へ場所を移したそうです。

すると、すでにお父さんも来ていたそうですが、江川さんは、蓮実氏に了解を取り、お父さんそっちのけで、婚約中だった(後の妻)正子さんを電話で呼び寄せると、夜の11時前に差し入れのケーキを携えて訪ねてきた正子さんに、アメリカの体験談をしゃべり続け、気がつくと午前0時近くになっていたそうです。

そして、もう遅いからと、正子さんが帰った後、江川さんは急に時差ボケで眠くなったそうで、お父さんに、「話は明日する。7時半に起こすから寝なさい」と言われ、用意されていた布団に入ると、巨人に入団できるかもしれない詳細について考える間もなく眠りに落ちたのだそうです。

1978年11月21日午前0時過ぎ、船田中衆議院議員の秘書・蓮実進と巨人が会談

一方、当時の新聞報道によると、蓮実邸で江川さんが眠りについた午前0時すぎ、 蓮実氏は東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニに向かい、巨人・長谷川実雄球団代表と会談していたといいます。

(巨人側には山本栄則顧問弁護士も加わり、約4時間の協議が行われたとのこと)

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江川卓は父親から1978年11月21日はどこの球団とも自由に契約ができると聞かされ驚いていた

さておき、江川さんは翌朝7時半に目を覚ましたそうですが、お父さんも蓮実氏もすでに身支度を整えていたそうで、江川さんも慌てて、顔を洗い、服を着て、応接間のソファに座ると、

お父さんが、「あの話だが・・・」と神妙な表情で切り出し、

野球協約によると、ドラフト会議の前々日、つまり昨日20日、前の年のドラフトで指名した球団の交渉権が切れることになっている。(クラウンの後身である)西武の交渉権は昨日で切れ、今はどこの球団も束縛権は持っていない。従って今日21日は、どこの球団とも自由に契約ができるんだ

と、言ったそうで、

江川さんは、これを聞き、(今までそんな方法で契約した選手は一人もいないはずで、そんなことが本当に可能なのかと)背筋がゾッとしたそうで、想像もしていなかった話に、ただただ驚くばかりだったそうです。

「江川卓の空白の1日(ドラフト前日に巨人入団可能)の理屈とは?」に続く

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