東海大学行きを決めていたにもかかわらず、ただの球団職員という認識しかなかったスカウトマンの佐川直行さんに、「おまえなんかほしくない」と言われ、カーっとなって、つい「阪神に入る」と啖呵(たんか)を切り、阪神タイガースに入団することになったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、実は、前年の阪神のドラフト次第では、江夏さんの阪神入団はなかったといいます。

「江夏豊は高卒で阪神タイガースにドラフト1位指名されていた!」からの続き

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前年の阪神のドラフト次第では江夏の阪神入団はなかった

東海大学行きを決めていながら、阪神タイガースのベテランスカウトの佐川直行さんの作戦にまんまと乗り、阪神タイガースに入団した江夏さんですが、

前年の阪神のドラフトの結果によっては、阪神入りがなかったことを、後で知ったといいます。

前年のドラフトで阪神は鈴木啓示を指名する予定だった

というのも、前年の1965年の第1回ドラフト会議では、甲府商業高校の堀内恒夫さん(巨人に入団)、育英高等学校の鈴木啓示さん(近鉄に入団)などの好投手が目白押しで、阪神は、兵庫県出身のご当地選手である鈴木さんを指名することで固まっていたそうですが、

(鈴木さんも阪神が大好きだったため、相思相愛の関係だったそうです)

佐川さんが、「鈴木よりいい投手がいる」と言って、香川県立土庄高等学校の右腕・石床幹雄さんを推したそうで、佐川さんが、石床さん獲得にあたり、「おれのスカウト生命をかける」と言って周囲を説得したことから、その気迫に押された阪神が方向転換し、石床さんを1位指名したそうで、

もし、阪神がすんなりと鈴木さんを1位指名していたら、鈴木さんも江夏さんも左腕だったため、2年連続で高校生の左腕を取るということはありえず、翌年の江夏さんの1位指名はなかったというのです。

(阪神から1位指名された石床さんは、1969年に健康診断で慢性腎不全を患っていることが判明し、翌1970年には肺炎のため、わずか5年で現役を引退すると、その後は故郷に戻り、療養しながら実家の旅館を手伝い、1976年からは、人工透析などの治療を受けながら料亭「石床」を経営するも、2004年には、急性心不全のため、57歳の若さで他界されています)

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東海大学に一緒に行くはずだった仲間は大阪学院大学に進学

さておき、阪神タイガースに入団することになり、当初予定していた東海大学進学がなくなったことから、ずっと東海大学の窓口となっていた塩釜監督には、長兄の房雄さんから「プロに行きます」と伝えてもらったそうですが、塩釜監督は、怒る素振りを一切見せず、うまく収めてくれたそうです。

それでも、江夏さんが東海大学に行くことを条件に一緒に東海大学に行くことになっていた仲間は、大阪学院大学に進学することになったそうで、(仲間とは今でも付き合いが続いているそうですが)今でも、悪いことをしたと思っているそうです。

「江夏豊の背番号28は消去法で選択したものだった!」に続く

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