高校3年生の夏の大阪大会準決勝では、ノーマークだった公立の桜塚高校のエース・奥田俊輝さんの前に1対0で敗退してしまった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、それから32年後、赤瀬川隼さんの小説「捕手(キャッチャー)はまだか」に触発され、桜塚高校の選手達ともう一度試合がしたいと思い立ち、再戦したといいます。

「江夏豊は高3の夏の大阪大会準決勝で公立の桜塚高校に敗れていた!」からの続き

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高3の夏の大阪大会準決勝敗退から32年後に再び桜塚高校と対戦していた

高校3年生の夏の大阪大会準決勝では、ノーマークだった公立の桜塚高校に敗退し、甲子園出場を逃した江夏さんですが、それから32年後、50歳になる時、桜塚高校の選手達ともう一回試合がしたいと、OBマッチを提案すると、桜塚高校の元エース・奥田俊輝さん(後に阪神タイガース)は快諾してくれたそうで、

江夏さんは、奥田さんと共に準備を勧め、大阪のプラザホテルに当時の仲間を集めて打ち合わせをしよう、ということになったそうです。

(江夏さんは、旧制中学の野球大会で戦った男たちが、人生の明暗をそれぞれの過去に背負いながら、同じメンバーで33年ぶりに再び集い、野球の試合に臨むという、作家・赤瀬川隼さんの小説「捕手(キャッチャー)はまだか」を読んで感動し、自分も、当時の桜塚高校のメンバーと試合がしたいと思ったのだそうです)


捕手(キャッチャー)はまだか

32年ぶりの再会でも元部員たちがお互いの顔を覚えていて感動

そこで、江夏さんは、阪神タイガースで一緒だった奥田さんとはお互いの顔が分かっているものの、ほかの選手たちは、顔を見ても忘れているだろうから、自分たちが紹介してやらなくてはと思っていたそうですが、

(奥田さんは、1966年、第1次ドラフト5位で阪神に入団しており、江夏さんとは同期で同僚だったそうです)

みんな顔を合わせるなり、「おまえ、サードやってたやつやな」「おまえ、桜塚の奥田やないか」と、32年前に対戦した相手の顔を覚えていたそうで、すぐに意気投合し、話はとんとん拍子に進んだのだそうです。

(江夏さんは、青春の記憶はみんなの中で生き続けていたんだと感動したそうです)

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32年ぶりに奥田俊輝と投げ合う

そして、32年ぶりの再戦の地を、桜塚高校に近い大阪・豊中市のローズ球場に選ぶと、

(豊中市は甲子園球場ができる前に、夏の全国高校野球大会の前身となる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開催された場所で、いわば、高校野球発祥の地だったため、甲子園を目指して、しのぎを削った「元球児」が旧交を温める場所としては最高の場所だと思ったそうです)

江夏さんと奥田さんは投げ合ったそうで、

(小さな球場とはいえ、スタンドは満員になったそうです)

江夏さんは、その時のことを、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)」で、

あっという間に過ぎた青春時代だったが、その記憶は永遠であり、ともに過ごした仲間も終生の友となった。高校野球のすばらしさを改めてかみしめたのだった。

と、綴っています。


燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)

「江夏豊は高卒で阪神タイガースにドラフト1位指名されていた!」に続く

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