前年1965年のドラフト会議で、阪神が当初の予定通り、鈴木啓示さんを指名していれば、阪神に指名されることはなく、阪神入団もなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、いよいよ、阪神と契約を交わし、契約金をもらうと、背番号も仮の番号から28となります。

「江夏豊は前年のドラフト次第では阪神タイガース入団はなかった!」からの続き

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契約金800万円を現金でもらっていた

阪神と契約を交わした江夏さんは、契約金1000万円、年俸180万円だったそうですが、契約金は、税を引くと700万円くらいになるところ、阪神球団が「君には特別に期待しているから」と言って、100万円上乗せしてくれ、手取り800万円になったそうです。

そして、契約金は一括でもらえるため(年俸は月割)、振込にしますか、現金にしますか、小切手にしますか、と聞かれたそうですが、江夏さんは、800万円の札束というものを一度見てみたかったことから、「現金で」と即答したそうです。

契約金800万円分の札束を阪急電車で抱いて帰っていた

すると、球団事務所のテーブルに800万円が置いてあり、「これをどうぞ」と言われたそうで、 江夏さんは、「ハイ、いただきます」 と言って、その札束を唐草模様の風呂敷で包み、阪急電車で球団事務所のあった梅田から自宅のある尼崎まで帰ったそうですが、

帰り道、(こんな少年が大金を持っているとは誰も思っていないだろうと)不安がなかったばかりか、「これは、俺が稼いだ金なんだ」と、ただただ嬉しかったそうです。

(江夏さんが小さい頃は、「百万長者」という言葉があり、百万円あれば一生楽して暮らせたそうで、その頃と比べ、物価は上がっていたものの、やはり800万円は大金だったそうです)

ただ、この現金800万円は、400万円をお母さんに、残りの400万円は何かと江夏家の面倒をみてくれていたという近所の鉄工所のおやじさんに渡したそうで、江夏さんの手元にあったのはたった1時間ほどだったそうです(笑)

(ちょうど鉄工所の経営が苦しくなっていた時だったそうで、いい恩返しができたと思ったそうです)

阪神入団当初は仮の背番号「71」をつけていた

さておき、江夏さんは、同じく第1次ドラフトで指名されて入団した、平山英雄さん(釧路江南高等学校)、奥田敏輝さん(桜塚高等学校)、大原和男さん(浪華商業高等学校)、第2次ドラフトで指名されて入団した、西村公一さん(甲府工業高等学校)、大倉英貴さん(芝浦工業大学)らと共に、早速、秋のキャンプに参加したそうですが、

この時の背番号は、まだ仮の番号「71」を着用していたそうです。

(奥田さんが「72」、平山さんが「73」だったそうです)

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背番号「28」は消去法で選択していた

そして、その後、正式な背番号を選ぶ時、球団側から、「1」「13」「28」が空いているので好きな番号を選ぶよう言われたそうで、

江夏さんは、本当は、高校時代につけていた「1」にしたかったそうですが、この番号は、前年、近鉄に入団した鈴木啓示さんがつけていたもので、憧れの左投げで最大のライバルでもあった鈴木さんのマネをするのはプライドが許さなかったことから、「1」は却下。

残るは「13」と「28」ですが、長兄の房雄さんと話し合った結果、「13」は(「13日の金曜日」を連想させ)縁起が悪いとやめたそうで、消去法で、末広がりの「八」が入っている「28」となったのだそうです。


燃えよ左腕: 江夏豊という人生

「江夏豊は阪神入団当初ストレートしか投げられなかった!」に続く


阪神タイガース入団発表時の江夏さん(中央)。左は母親の喜美さん。(1966年10月3日)

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