1966年、阪神の監督に就任するも、1年目のシーズン途中に解任された、杉下茂(すぎした しげる)さんは、1968年には、古巣・中日ドラゴンズの監督に就任するのですが(1959~1960年以来2度目)、またしても、1年目のシーズン途中に解任されてしまったといいます。

「杉下茂は阪神監督を就任1年目シーズン途中で解任されていた!」からの続き

Sponsored Link

古巣・中日ドラゴンズの監督に再就任するも・・・

杉下さんは、1968年には、西沢道夫監督の後任として、1959~1960年以来、2度目の中日ドラゴンズの監督に就任しているのですが、4月20日から9連勝で首位に立つも、

その後は、板東英二投手がリリーフで投げすぎた反動から右ひじ痛に陥いるほか、前年まで大車輪の活躍だった小川健太郎投手が不振、前年首位打者の中利夫選手も目の病気で欠場するなど、主力選手の相次ぐ故障欠場により、5月は8連敗するなど、一気に負けが込んでしまいます。

(西沢道夫さんは1964年から監督を務め、前年まで3年連続2位という成績で、この年も監督を務めるはずだったのですが、身体を壊し、キャンプイン直前に辞任となっていました)

2回目の中日監督時代も1年目の途中で解任される

そんな中、中日は、5月16日の阪神戦(中日球場)から、ファンサービスの一環として日本プロ野球史上初となるノースリーブユニフォームを採用したそうですが、その後、まもなく最下位に転落すると、その後も、5月29日からは11連敗、6月13日からは7連敗と、大型連敗が続き、6月はすっかり最下位が定着。

すると、杉下さんは、6月24日に休養を言い渡されたそうで、シーズン終了を待たず、8月には監督を解任されたのでした。

(ちなみに、このノースリーブユニフォームは同年のシーズン終了まで採用されたのですが、「縁起の悪いユニフォーム」としてシーズン終了と同時に封印されたそうです)

Sponsored Link

監督時代の成績(中日ドラゴンズ、阪神タイガース)

それでは、ここで、杉下さんの監督時代の成績をご紹介しましょう。

杉下さんは、1958年のシーズン終了後、33歳にして、中日ドラゴンズで、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)に就任すると、1年目は2位となるも、2年目は5位に転落し、シーズン終了後、責任を取って監督を辞任。

1966年には、阪神タイガースの監督に就任するも、成績不振により、8月13日には休養。

1968年には、再び、中日ドラゴンズの監督に就任するも、またも、成績不振により、6月24日には休養となっており、

監督としては、現役時代のように、存分に能力を発揮することが出来ませんでした。

「杉下茂は巨人コーチ時代に長嶋茂雄監督に選手と正座させられていた!」に続く

Sponsored Link