入団1年目から遊撃手として活躍し、その華麗な守備で、「牛若丸」と称された、吉田義男(よしだ よしお)さんは、1950~1960年代、三塁手の三宅秀史選手、二塁手の鎌田実選手との抜群のコンビネーションで、阪神タイガースの守備における黄金時代を築いたといいます。

「吉田義男はヤンキースからアウトスタンディングプレイヤーに選ばれていた」からの続き

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1950~1960年代には「黄金の内野陣」と呼ばれていた

終戦後、阪神は打撃のチームで「ダイナマイト打線」と呼ばれていたのですが、1950年代~1960年代は、華麗な守備で魅せる「黄金(100万ドル)の内野陣」が活躍したそうで、

遊撃手の吉田さんと三塁手の三宅秀史選手の三遊間は、巨人の広岡達朗選手と長嶋茂雄選手の三遊間と並び、「鉄壁」と評されたほか、吉田さんと二塁手の鎌田実選手の二遊間も同様の評価を受けたそうです。

三塁手の三宅秀史の守備は巨人の水原茂監督に絶賛されていた

ちなみに、三宅選手は、吉田さんと同期で、1953年入団なのですが、入団3~4年目頃から頭角を現し始めたそうで、一分のムダも感じさせない流れるような動きや、打球への素早い反応のほか、

ワンバウンドになると思われた送球が途中から矢のように伸びてダイレクトで一塁手のミットに収まるという強肩を持っていたそうで、

普段、無口で、物静かだったという、巨人の水原茂監督をして、

今、サードで一番うまいのは三宅だろう。打球への出足、キャッチング、スローイングなどを総合すると、長嶋よりも上だと思う

と、言わしめたそうです。


吉田さん(左)と三宅秀史さん(右)。(1957年)

二塁手の鎌田実は「バックハンド・トス」の名人だった

また、吉田さんの4年後(1957年)に入団した鎌田実選手は、高校時代は遊撃手だったのですが、プロ入り後、二塁手にコンバートされると、とんでもなく上手で、どう捕ってどう投げてくるか、味方でも予測のつかないプレーをしばしば見せたそうで、その集大成が、名人技と言われたバックハンド・トスだったそうです。

吉田さんによると、鎌田選手は、捕球するや否や、体勢をまったく変えず(ホーム方向を向いたままの姿勢で)、右ヒジから先の動きだけで二塁方向へバックトスをしたそうで、

ベースカバーに入った吉田さんがぎりぎり視界に入っているとは思われるも、ちらりとも見ず、あっと思った時には、グラブから生きた球が勝手に飛び出して来るように見えたのだそうです。

(鎌田選手は、このプレーをメジャーリーグから盗んで、黙々と練習を重ね、3年後に初めて実戦で使ったのだそうです)

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鎌田実のどんなプレーも受け止められるように心がけていた

吉田さんは、初めて鎌田さんにこのプレーをされた時、仰天して危うくボールを落としそうになったそうですが、次第に、鎌田選手がどう動けばどのようなプレーをするかが瞬時に判断できるようになり、どこから球が飛んで来ても問題なく対応できるようになったそうで、

著書「阪神タイガース」で、

野球はコンビネーションが命である。どんなに素晴らしい技術を持っていても、それを受け止められる相手がいなくては、宝の持ち腐れになる。私が新人の頃は、ベテラン二塁手の白坂(長栄)さんが、私のどんなプレーも受け止めてくれた。

だからこそ、思い切ったプレーを試すことができ、それが貴重な経験となって、私は少しずつ成長することができた。白坂さんが私にしてくれたことを、私も鎌田に対してしなければならない。それがコンビネーションというものではないか。私はそう考えていた。

と、綴っています。

(実際、鎌田選手は、1967年、近鉄バファローズに移籍すると、得意のバックトスをするも、若い遊撃手が捕球できず、送球はセンター前まで抜けるエラーになってしまったそうで、翌1968年から近鉄監督に就任した三原脩監督には、「バックトス禁止令」を出されたそうで、吉田さんは、その時の近鉄の環境では、鎌田選手が若い遊撃手の受け皿になってやるべきであり、それがコンビネーションというものだと三原監督は考えていたのではと解釈しているそうです)

「吉田義男は併殺(ダブルプレー)に強い拘りを持っていた!」に続く


阪神タイガース

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