1974年には日本ハムの監督に就任するも、2年連続最下位だったほか、選手たちの反発に遭い、2年で解任された、中西太(なかにし ふとし)さんですが、1979年、阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任すると、翌1980年5月15日には、ドン・ブレイザー監督退団と同時に新監督に就任。しかし、シーズン終盤には、突然、辞意を表明したといいます。

「中西太は日本ハム監督時代は選手たちに反発されていた!」からの続き

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1980年に阪神監督就任も同年辞意を表明していた

中西さんは、1979年、阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任すると、翌1980年5月15日には、ドン・ブレイザー監督退団と同時に新監督に就任するのですが、

(中西さんとドン・ブレイザーさんは、1958年、ブレイザーさんが日米野球でカージナルスの一員として来日した時から、友人となっていたそうで、引退後は「一緒に野球をやろう」と誓い合った仲だったそうです)

シーズン終盤の同年10月11日、突然、

成績不振の責任を取って辞めたい

と、辞意を表明したといいます。

辞意は固かった

実は、この日は、大阪市内のとある場所で、岡崎義人球団代表と来季のコーチ陣や外国人選手の処遇など、「留任」を前提とした話し合いが行われる予定だったところ、

中西さんは、冒頭で辞任を申し出たそうで、岡崎球団代表には慰留されたものの、決意は固く、

勝てなかったという責任は取らねばならない。逃げるつもりはない。(岡崎)代表から『小津社長が会いたい』という話を聞いたが、今は会えない。申し訳なくて、会うのがつらいんや

と、言ったそうで、この日は保留ということで収まったそうです。

そして、10月13日午後3時過ぎ、球団側からは、「成績不振を理由にしての退団は認めない」という方針を伝えられるのですが、

中西さんは、依然として、

気持ちはありがたいが、だからといって私の気持ちが変わることはない。とにかく明日(14日)の社長との話し合いの席で、私の気持ちを分かっていただく

と、きっぱり言い切ったのだそうです。

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阪神の小津正次郎球団社長はすでに後任監督の人選に動いていた

そんな中、小津正次郎球団社長は、「健康上の問題ならともかく、他の理由なら残ってもらう」「来季も中西監督」などと、マスコミに公言し、慰留の構えを見せていたにもかかわらず、

私の立場としては、慰留が失敗に終わったときのことも考えておかねばならないので、その点の情報収集はやっている

と、「和戦両様は経営者の常」と、後任監督招へいの準備も始めていることを示唆しているのですが、

(※「和戦両様の構え」とは、話し合いになろうと、全面的な争いになろうと、どちらでもよいように準備すること)

スポーツニッポンの記者・大西禧充さんは「指導者への愛情がない。これが阪神の伝統だ」とこき下ろしています。

ちなみに、阪神は、10月11日の夜に、上田利治さんの自宅に電話し、監督就任を要請するも、上田さんにはこの申し出を辞退されたことから、(1978年に招へいに失敗した)広岡達朗さんにも接触していたようで、10月12日の1面に「中西辞任表明」の大見出しが踊ると、10月13日には、早くも「中西退団へ」「後任第1候補は広岡氏」と報道されています。

「中西太は阪神球団に監督辞任を引き留められ態度を保留していた!」に続く


阪神タイガース監督時代の中西さん。

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