打撃コーチとしては、若松勉選手、ラルフ・ブライアント選手、岩村明憲選手ら、名選手を世に送り出してきた、中西太(なかにし ふとし)さんですが、監督としてはなかなかうまくいかなかったといいます。今回は、そんな中西さんの日本ハム監督時代をご紹介します。

「中西太は岩村明憲をひと目見て素質を感じ指導していた!」からの続き

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日本ハムで初代監督に就任するも選手たちから反発されていた

中西さんは、1974年、日本ハムの初代監督に就任すると(日本ハムが日拓ホームフライヤーズを買収)、2年連続最下位となり、1975年には解任されているのですが、

実は、選手たちからも、中西さんの”首をかしげる采配”に反発されていたそうで、

当時、日本ハムに在籍していた張本勲さんは、中西さんが、一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していたという姿を見て、選手も戦う気になれなかったと証言しています。

新社長の三原脩のケチケチ経営に選手たちは不満を募らせていた

ちなみに、選手たちが中西さんの采配に反発した背景には、球団への不満もあったようで、日本ハムは、1974年、日拓ホームから球団を買収し、新球団社長に中西さんの義理の父である三原脩さん、監督に中西さんが就任しているのですが、

(中西さんは、三原脩さんの長女と結婚しています)

三原さんは、ボールの節約や選手の医療費カットのほか、遠征時、打撃投手は自費で帰京させていたそうで、

この「ケチケチ経営」に、選手たちは、

一生懸命やってケガをしたら大損。バンソウコウひとつ十分に使わせてもらえないんだから

と、愚痴っていたのだそうです。

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新社長の三原脩は大物選手たちを「全員トレード要員」と言い放っていた

そのうえ、三原さんは、この年(1974年)、日本ハムが前期・後期ともに最下位だったため、「東映色、日拓色」を一掃するべく、同年10月11日、東京・六本木の球団事務所で、

張本や大杉ら主力選手を含めて全員がトレード要員です。彼らが悪いというわけではない。やる気はあるでしょう。だが、〝プロずれ〟し過ぎて真剣さに欠ける。玄人ぶってはファンに感動を与えるどころか、嫌みを感じさせる

と、言い放ったことから、

(監督が選手に危機感を持たせるため、方便で「全員がトレード要員」と発言することはよくありますが、日本ハムは本気で言っていたそうで、大社義規オーナーも「世間の物笑いになるような不釣り合いなトレード以外なら推し進めてよい」と同意していたのだそうです)

選手たちは大反発したそうで、張本さんは、「ワシを必要としないと分かった以上、こんなチームにいたくない」、大杉勝男さんも「かわいがってくれたオーナーには悪いが、日本ハム以外ならどこでもいい。オレをこんな気持ちにさせたやつらを見返してやる」と言って、主力選手たちが「出ていってやる!」と息巻き、大混乱となったのでした。

(突如、大物選手たちが売りに出されて、球界は騒然となったそうで、「日本ハム騒動」と言われました)

「中西太は阪神監督就任もシーズン終盤には辞任を申し出ていた!」に続く

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