高校1年生の時(1949年)、4月にはお父さん、9月にはお母さんと、相次いで他界し、経済的な問題に直面する中、まだ高校3年生だった、2歳年上のお兄さんが家業を継いで、野球を続けさせてもらったという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、高校の野球部は、設備が整っておらず、監督もいなかったそうで、ほかの部員たちと共に、一から作り上げていったといいます。

「吉田義男は高1の時に父母が相次いで他界し兄に養われていた!」からの続き

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山城高校野球部は当初は監督がおらず設備も手作りしていた

1949年、吉田さんは、山城高校へ進むと、4月にお父さんが亡くなったこともあり、当初は野球部には入らなかったそうですが、強く勧誘されたことや、何より、お母さんが「好きなことをやれ」と後押ししてくれたことから、6月に野球部に入部したそうです。

ただ、山城高校は当初、野球部に力を入れていなかったことから、監督はおらず、グラウンドも荒れていたそうで、吉田さんたち野球部員は、石ころだらけのグラウンドをならし、材木店や八百屋から木材をもらってきて、バッティングケージを手作りするほか、ボロボロのボールや折れたバットもみんなで大切に使ったそうで、

お金がない公立校という枠組みの中で、力を合わせてできるだけのことはやるなど、チームワーク抜群の野球部だったそうです。

監督も自分たちで探していた

そして、監督も自分たちで探したそうで、京都師範の選手で、甲子園に出たこともあるという、後栄治(うしろ えいじ)さんという人が、近くの翔鸞(しょうらん)小学校で教師をしているという情報を入手すると、後さんにお願いして、監督を引き受けてもらったそうです。

(後さんが、小学校の授業を終え、山城高校に来る時間に合わせて、小学生の息子さんが、野球道具を自転車で高校まで届けに来たそうです)

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監督を引き受けてくれた後栄治は素晴らしい指導者だった

ちなみに、後さんは、小柄ながら、「ファイティング・スピリット」をスローガンに掲げるような、闘志に溢れた人だったそうですが、その一方で、小学校の給食で余ったパンを持って来てくれ、練習後にお腹をすかせたナインにそっと手渡してくれるような、細やかさも兼ね備えた先生だったそうで、

野球の監督というより、教育者で、チームワークの大切さのほか、「人の二倍、三倍も練習するのは難しい。少し多く、ずっと続けろ」と教えてくれたそうで、吉田さんは、素晴らしい指導者に巡り合えたと語っています。

「吉田義男は無名高校から甲子園出場を果たしていた!」に続く

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