中学時代は、野球部で、毎日、練習よりも球拾いの時間の方が長かったにもかかわらず、全く苦にないほど、野球に夢中になっていたという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、高校1年生の時、お父さんとお母さんが相次いで他界すると、2つ上のお兄さんがお父さん代わりとなって一家を養ってくれたといいます。

「吉田義男は中学の時に天知俊一から遊撃手の守備を褒められていた!」からの続き

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高校1年生の時に父と母が相次いで他界

吉田さんが山城高校1年生の時(1949年)、4月にお父さんが他界したそうですが、

(お父さんは、結核を患ったことがあり、そのせいで体が丈夫ではなかったそうですが、そのうえ、重くて扱いにくい炭俵や薪束を扱う薪炭商は重労働で、余計に体に負担をかけていたそうです)

お父さんが他界したことで、(もともとお父さんの仕事をほとんど担っていた)お母さんの負担はさらに大きくなったそうで、9月にはお母さんも過労による脳出血で倒れると、それから3日後に亡くなったそうです。

(意識はあったそうですが、言葉がままならず、最後は筆談だったそうです)

2つ上の兄・正雄が一家の大黒柱となり野球を続けさせてくれた

ちなみに、お母さんが倒れた際には、長姉の芳子さんが、回復に効果があると言われていたアヒルの血を求めて方々を駆け巡ったそうですが、その甲斐なく、お母さんは他界してしまったそうで、立て続けに両親を失った吉田さんたち5人兄弟姉妹は、深い悲しみに包まれたそうです。

そして、この先、どうやって生活を維持していくかという経済的な問題にも直面したそうですが、2歳年上で、京都・伏見工業高校の建築科3年生だった兄・正雄さんが、(製図が得意で建築関係に進むことを希望していたにもかかわらず)家計を支えるため、学校に通いながら家業の薪炭商を継ぐ決断をしてくれたそうで、

吉田さんにも、

店のほうは心配しなくても大丈夫だ。オレに任せておけ。義男、おまえは、野球を思い切り頑張るんだぞ

と、言ってくれたのだそうです。

(実は、お兄さんも、吉田さん同様、野球が大好きだったそうですが、自分は野球を辞めて、家族の父親代わりとなり、吉田さんに野球を続けさせてくれたのだそうです)

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父親代わりに働いてくれた兄・正雄も43歳の若さで他界

そんなお兄さんは、主力商品が、時代と共に、炭、まき、煉炭などから、石油、プロパンガスへと移り変わる中、懸命に勉強し、店を守ってくれたほか、1975年1月2日には、宅建の資格を取得し、念願の建築関係に転業しようとしたそうですが、

その矢先、43歳という若さで、お母さんと同じ脳出血により他界されたそうで、

吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、

亡くなる前年の1974年秋、私は阪神の監督に就任した。暮れも押し迫った12月27日、中保町商店街の人たちが中心になって自宅近くの料亭「山文」で盛大な激励会を開いてくれた。

その席が兄と会った最後になった。6日後の正月2日早朝、兄が倒れたという連絡を受け、急いで駆けつけたが間に合わなかった。父親代わりとして、私の監督就任を見届けてから逝ったような気がした。

両親が他界後、無事に暮らせたのも、野球を続けることができたのも、お兄さんのおかげで、いくら感謝しても足りない

と、綴っています。

「吉田義男は無名高校で野球部を一から手作りしていた!」に続く


牛若丸の履歴書

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