山城高校野球部では、設備が整っておらず、監督もいなかった中、自分たちで設備を手作りし、監督も自分たちで呼んできたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、1年生で遊撃手のレギュラーとなると、2年生の時には、夏の甲子園出場を果たしたといいます。

「吉田義男は無名高校で野球部を一から手作りしていた!」からの続き

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高校2年生の時に夏の甲子園に出場

吉田さんは、山城高校野球部では、1年生ですぐに遊撃手のレギュラーになると、2年生の時には(1950年)、傑出した選手がいなかったにもかかわらず、一致団結の力が実ったのか、夏の甲子園では、京都大会を勝ち進み、準決勝で名門の平安高校に勝利したそうで、

(当時は、滋賀の優勝校と争う京滋大会があったそうです)

その後、決勝でも、伏見工業高校を下し、初優勝すると、続く、全国高等学校野球選手権京滋大会でも、八幡商業高校を下して、見事、「第32回全国高校野球選手権大会」(夏の甲子園大会)へ出場を果たしたそうです。

ちなみに、京滋大会での対戦相手は八幡商で、以前、対戦して大敗していたことから、下馬評では八幡商が優勢で、滋賀代表が初めて甲子園に出場するのではと予想される中、吉田さんたち山城高校が勝利したそうですが、

夕日が沈む衣笠球場で、応援してくれた先輩や級友、チームメイトと校歌を歌った感激は今でも忘れられないそうです。

夏の甲子園では初戦(北海高校戦)で敗退

そして、迎えた甲子園での初戦、北海高校戦(大会初日の第二試合)では、吉田さんは1番・ショートに起用されると、4番打者は長距離砲の山下新造さんで、1、2番が足でかき回し、中軸打線が強打を見舞うバランスのいい打線だったそうですが、

左腕・川村尚投手が不調で、際どい球がボールになると、いつものクセで天を仰いだそうで、主将でキャッチャーの川本浩司さんが、「審判の心証を害する」と何度も注意したそうですが、直らず、結局、北海高の塩谷投手の切れのいい球に戸惑ったまま、3対5で敗れたそうです。

そんな中、吉田さんは、2年生でただ一人のレギュラーで、バント安打を一本記録したそうで、敗れたものの、この甲子園出場は、かけがえのない思い出となったのだそうです。

(山下さんは、その後、慶應大へと進むと、立教大学の長嶋茂雄さんが東京六大学野球の通算本塁打記録を8本と更新する中、6本の本塁打を放ったそうです。また、バッテリーの川村さんと川本さんは、卒業後も関西学院大学でコンビを組むと、その後、川村さんはノンプロ(日生)、川本さんはプロ野球(大映スターズ)でプレーしたそうです)

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各地の招待試合では観客から熱狂的に迎えられていた

また、甲子園出場を果たした吉田さんたち山城高校野球部は、各地の招待試合に呼ばれたそうですが、戦後間もない当時、高校野球に対する熱狂ぶりは凄まじく、四国高松に、高松商業高校、高松第一高等学校、平安高等学校、山城高等学校の4校が集結した際には、球場は観客ではち切れんばかりとなったそうです。

(そんな中で戦った、高松第一高等学校の中西太さんのスケールの大きさには、目を見張るものがあり、自分たちは、井の中の蛙だと思い知ったそうです)

ちなみに、単独遠征では、ある部員の親の故郷だった福井県武生市へよく試合に行ったそうですが、お目当てはお米だったそうで(戦後5年経っても、食糧難はまだ解消されていなかったそうです)、帰りには、部員全員に、北陸特産のお米をレーヨンの袋に入れて1升ずつもらえたのだそうです。

「吉田義男は高3の時には主将&4番も向いていないと思っていた!」に続く

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