「空白の一日(1978年11月21日)」を利用した巨人との契約を発端とする騒動で、1979年5月31日まで1軍選手登録を禁止された、江川卓(えがわ すぐる)さんは、同年6月2日、ようやく、阪神戦で一軍デビューするも、この時は、散々な結果に終わるのですが、その後は、6月からのスタートだったにもかかわらず、9勝10敗、防御率2.80(リーグ3位)という成績を残します。ただ、(実質的に)交換で阪神にトレードされた小林繁投手が、対巨人戦での無傷の8連勝を含む22勝(最多勝)9敗1セーブ、防御率2.89、投球回数273.2回というという凄まじい活躍をしたことから、すっかり霞んでしまい、巨人ファンを満足させることはできませんでした。

巨人入団会見で力亨オーナーと握手する江川卓

「江川卓は交換トレードではなく金銭トレードを巨人に頼み込んでいた!」からの続き

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江川卓は一軍デビューの阪神戦では被本塁打3本の5失点で敗戦投手になっていた

1979年、すったもんだで巨人に入団した江川さんは、2ヶ月間の自粛期間を終えると、同年6月2日、阪神戦で一軍デビューするのですが、

敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、4回にリロイ・スタントン選手、7回に若菜嘉晴選手とマイク・ラインバック選手に本塁打を浴びるなど、5失点で敗戦投手となります。

江川卓の巨人入団1年目の1979年は阪神の小林繁の活躍にかすんで影が薄かった

それでも、江川さんは、(心理的プレッシャーを抱えながらも)その後は活躍し、6月からのスタートだったにもかかわらず、9勝10敗、防御率2.80(リーグ3位)という成績を残したのでした。

ただ、(実質的に)江川さんとのトレードで阪神に移籍した小林繁投手が、22勝9敗1セーブ、防御率2.89、投球回数273.2回というという凄まじい活躍をしたことから、江川さんは巨人ファンを満足させることはできなかったのでした。

(新人王は13勝を挙げた中日の藤沢公也投手が獲得しています)

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江川卓は「空白の一日」でついたダーティーなイメージを払拭するには試合で勝つしかないと考えていた

ちなみに、江川さんは、「空白の一日(1978年11月21日)」を利用した巨人との契約を発端とする騒動で、読売を除くマスコミの総攻撃に遭い、すっかり「ダーティー」なイメージが定着してしまうのですが、

それを払拭するためには、まず、「勝つこと」が大事だと考えたそうで、著書「たかが江川されど江川」で、

人間的に多少なりと僕を成長させてくれたドラフトではあったが、だからこそ、その代償も相当に大きかった。世間に定着した江川卓のダーティ・イメージである。「あのイメージをなんともぬぐいさりたい」これが僕と(妻の)正子のふたりの、人生における最大のテーマとなった。

どうすれば、本当の自分を分かってもらえるか――。そのために、まずふたつのことを肝に銘じた。ひとつは、野球ではとにかく勝つこと。トレードで阪神に移った小林さんへの負い目もあった。投手である僕にとって、勝つ以外におわびの方法はないし、ファンに納得してもらうのもまず勝つことが最低条件だと思ったのだ。

もうひとつは、周囲には決して失礼なことはできないということだ。一度貼られたダーティなレッテルをはがすのは容易なことではない。一度にまとめて、なんてことは絶対に無理だ。何かの縁で接することのできるひとりひとりの方に、江川卓を正しく理解してもらう以外に方法はない。同じ軽はずみがあっても〝あの江川〟がするのと、他の誰かがするのとでは反応が違う。

ちょっとでも他人の神経にふれることをすれば、「やっぱり江川の野郎は」とことさら大袈裟に批判される。一度悪者になると悪い方へ悪い方へと解釈されるものなのだ。

と、綴っています。

(入団時には、チーム(巨人)内でも、(実質的に)交換で阪神にトレードに出された小林繁投手の心情を思いやって、江川さんに白い目を向ける者もいたそうで、チームの決まりごとも教えてもらえず、間が悪く先輩より先に風呂に入ってしまい、「裏口から入ったヤツはルールを知らん」などと陰口を叩かれ、慌てて、その先輩に謝りの電話を入れたこともあったそうです。ただ、電話に出たのはその選手の奥さんだったそうで、奥さんは「評判とは違って、意外に悪い人じゃないみたい」と語っていたとのことでした。)

「江川卓は入団2年目に小林繁と初対決し完投勝利していた!」に続く

巨人入団会見で力亨オーナーと握手する江川卓
巨人入団会見で力亨オーナー(右)と握手する江川さん(左)。

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