1973年、ドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、1年目の1974年は一軍の春季キャンプメンバーに選ばれず、甲子園(二軍)での練習後も、阪神・武庫川駅の河川敷で一人練習に励んでいたという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、年俸が両リーグ最低の84万円で生活が苦しかったほか、関西弁が理解できず、関西の味にも馴染めず苦労したといいます。

「掛布雅之は阪神入団1年目は一軍の春季キャンプに選ばれていなかった!」からの続き

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年俸84万円(月給7万円)で生活は苦しかった

掛布さんは、新聞にはドラフト6位と発表されたものの、それは建前であり、実質はテスト生だったため、1年目の年俸は両リーグ最低の84万円で(月給に換算するとわずか7万円)、さらに、その中から寮費と道具代が天引きされ、手にする額は5万円ほどしか残らなかったそうで、同期の選手や先輩が年俸や給料の話をすると、耳をふさいだそうです。

給料袋は選手全員の中で一番薄っぺらかった

また、当時、給料は振込ではなく手渡しだったため、毎月25日、試合が終わり、マネージャーの部屋に給料をもらいに行くと、選手全員の給料が並べて置かれてあったそうで、

その中で一番薄っぺらいのが掛布さんの給料袋で、小銭が入っていなかったら風で飛んで行ってしまうのでは、と思えるほどの頼りなさだったそうです。

一方、一番立派だったのが、田淵幸一さんの給料袋だったそうで、(横にしても立つほどの分厚さだったそうです)それをジロッと横目で見ながら、

オレもあんな給料袋を手にする日がくればいいなァ・・・

と、漠然と憧れたそうですが、その頃は目標というより、夢の世界だったそうです。

実家の両親への手紙は練習の報告が3行ほどで後は生活の苦しさを訴えていた

そんな掛布さんは、3~4日に一度、千葉の実家に手紙を書いていたそうですが、練習の報告は3行ほどで、その後は、

父さん、寮費やスポーツ用品の支払いをすませたら3万円くらいしか残りません

母さん、電話をかければいいんだけれど、電話代を払うと、もう、他に何も買えません

など、生活の苦しさを訴える内容がほとんどだったそうです。

(その手紙を読んだお父さんとお母さんは涙が止まらなかったといいます)

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関西弁が理解できず、虎風荘の関西風の薄味の食事も口に合わず苦労していた

また、千葉県出身の掛布さんには、関西弁が理解できず、「虎風荘」(阪神タイガースの寮)での関西風の薄味の食事も口に合わず、苦労したそうで、

僕の実家は料理屋だったんですけど、ご飯を少しかために炊いていたんですね。ところが、寮のご飯はやわらかくて、はじめは全然食べることができなかった。それと、一番苦手だったのがお味噌汁。出しが合わなかったんです。

実家は昆布とカツオ節で出しをとったお味噌汁をお客さんに出していて、僕ら家族も同じものを食べていたんです。でも、寮のお味噌汁は煮干しで出しをとっていた。

この煮干しのにおいがまったくダメで・・・。ただ、1年くらいすると、逆に寮のやわらかいご飯や、煮干し出しのお味噌汁が美味しく感じるようにはなりましたね(笑)。まぁ、寮のご飯のおかげで体が大きくなったようなもんです。

と、語っています。

(友達も、同期でドラフト外の投手の中谷賢平さん一人だけだったそうです)

「掛布雅之は阪神入団1年目から開幕一軍入りを果たしていた!」に続く

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