松木謙治郎監督からは、ルーキーイヤーから、エラーが続いても遊撃手として使い続けてもらったという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、2年目のシーズンも自由にのびのびと野球をさせてもらったそうで、盗塁王にも輝いたといいます。

「吉田義男は遊撃手でエラーを繰り返すも松木監督に使い続けられていた!」からの続き

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身体を大きくするため好き嫌いなく食べるほか「ウサギ跳び」「階段上り」を繰り返しやっていた

吉田さんは、プロ入り1年目、2年目は、力負けしないパワーが欲しくて、技術を磨くのと同じくらい身体を作り上げることを重視し、165センチの身長はもう伸びないと諦めるも、55キロに届かない体重は、何とか60キロぐらいまで増やしたいと、

肉、魚、野菜を好き嫌いなくガンガン食べるほか、(当時はウエイト・トレーニングなどは導入されていなかったため)ひたすら走ったそうで、

現在は膝に悪いからやらないほうがいいと言われている「ウサギ跳び」や、 甲子園のアルプススタンドを利用した「階段上り」を繰り返ししたそうです。

(54段ある階段をひたすら上って下るほか、1段抜かしや、ケンケンなど、バリエーションも工夫したそうです)

苦しくなってからが本当の練習だと思って練習していた

また、「階段上り」は、勾配が最後のほうだけ急になっていることもあり、最後の10段が、特にキツかったそうですが、

キツイからこそ効果があるのだ。苦しくなってからが本当の練習だ。そこで自分に負けて流してしまうか、なにくそと頑張り切れるか。その違いが、実戦で必ず出る。

ここ一番の勝負強さや、捕れるか捕れないかギリギリのプレーでの球際の強さなど、さまざまな形で表れてくるはずだ

などと自分に言い聞かせながら、歯を食いしばって、ラスト10段に持てる力のすべてを振り絞ったそうです。

プロ入り2年目も松木謙治郎監督に使い続けられていた

すると、松木謙治郎監督は、そんな吉田さんを、1年目に続いて2年目(1954年)のシーズンも使い続けてくれたそうで、

(119試合と全試合に近い出番を与えてくれたそうで、松木監督には感謝しても感謝しきれないそうです)

1年目に2割6分7厘だった打率は、2年目には2割7分3厘にアップするほか、失策は38から30と減り、1年目に22個だった盗塁は、2年目には倍以上の51盗塁へと増加し、盗塁王にも輝いたのだそうです。

(ファン投票でオールスターにも選出されたそうです)

松木謙治郎監督の方針で「走る野球」が浸透していたため失敗を恐れず走ることができた

ちなみに、この年(1954年)のチーム盗塁数は205と、2位の中日の132を大きく引き離してリーグトップだったそうで、現役時代、「走る長距離打者」としてならした松木監督の方針で、この時の阪神(大阪)タイガースには、「走る野球」が浸透していたのだそうです。

実際、いつどうやって走るか、選手の自主性と判断に任されており、走者と打者の間で「走るぞ」「OK」のサインを交換し、自由に走ってよい決まりになっていたことから、まるで、競争のように誰もが盗塁を企てたそうで、吉田さんも失敗を恐れず、積極的に走ることができたのだそうです。

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松木謙治郎監督には自由にのびのびと育てられていた

また、打順も前年の7番から金田正泰さんが打っていた2番に抜擢されると、猛打と足攻をからめ、選手の自主性に任せて大胆に攻める、スケール豊かな松木野球の中で、駆け出しの吉田さんは、伸び伸びと育ててもらったのだそうです。

(足でかき回すことは、自分に与えられた役割だと考えたそうです)

そして、相変わらず、吉田さんは、大事な場面でエラーをしたそうで、「あんなエラーをされたんではたまらんで。吉田、しっかりやらんかい!」と、ベンチでベテラン投手にこっぴどく叱られることもあったそうですが、松木監督は何も言わなかったそうで、

バッティングに関して、

当てにいくなよ。ボールを引き付けて、バットを振り切れ

と、指導されただけだったのだそうです。

「吉田義男はヤンキースからアウトスタンディングプレイヤーに選ばれていた」に続く

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