入団1年目と2年目、松木謙治郎監督にのびのびと育ててもらったという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、3年目にはベストナインに選ばれたそうで、日米野球でも全日本チームの一員に選ばれたそうですが、ニューヨーク・ヤンキースの選手たちが選ぶ、アウトスタンディングプレイヤー(最も傑出した選手)にも選ばれたといいます。

「吉田義男は松木監督のお陰もありプロ入り2年目に盗塁王に輝いていた!」からの続き

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プロ入り3年目でベストナインに選出される

着実に実力をつけ、入団3年目(1955年)あたりからは、プロの世界にもすっかり慣れて、自分でも納得のいくプレーができるようになったという吉田さんは、打順は1番に定着するほか、プロとは何か、遊撃手とはどうあるべきかが漠然と分かるようになってきたそうで、吉田さんのフィールディングに対してお客さんが拍手して喜んでくれることも多くなったそうです。

また、この年は、17年の現役生活で最多となる147安打を打ち、初めてベストナインにも選ばれたそうで、

吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、

手前味噌になるが、ここからの数年間が、吉田義男というプレイヤーの旬だったかもしれない。今でいうと、ブレイクというやつか。グラウンドで飛び回る毎日が、私には楽しくて仕方なかった。

と、綴っています。

ヤンキースのプレーは恐怖を感じるほど凄まじかった

そんな中、1955年10月終わりには、毎日新聞社の招きで米大リーグのニューヨーク・ヤンキースが来日し、全国各地で16試合を行ったそうですが、

名将・ケーシー・ステンゲルさんほか、ミッキー・マントル選手、ビリー・マーチン選手、ホワイティー・フォード投手、ヨギ・ベラ選手など、錚々(そうそう)たるメンバーがいたそうで、

吉田さんは、全日本チームの一員に選ばれ、ヤンキースの選手たちと試合したそうですが、本場メジャーリーグでもトップクラスの選手たちの凄まじい迫力を、プレーの端々で実感したそうです。

(走者が、ベースにではなく、球を持っている野手に対してスライディングを仕掛けてきたことがあり、遊撃手の吉田さんは、走者一塁でセカンドゴロが飛ぶと、二塁へベースカバーに入りながら、冷や汗をかいたそうです)

ヤンキースのプレーを見て「可能な限り素早く送球すること」の大事さを確信していた

そんな中、吉田さんは、ヤンキースの選手の、打球の速さ、併殺を取る時の二塁ベース上のプレーなど、守っていることすべてに恐怖を感じたそうですが、走者につぶされないためには、避けながら送球するのではなく、投げてから避けなくてはいけないことに気がついたそうです。

(走者はあくまでボールに対してプレーしてくるため、滑り込んでくる前にいち早く送球を終え、手ぶらで体をかわせば、ターゲットにはならず、走者の方から見れば、スライディングの前に送球されると、野手をつぶすどころか、自分が送球を避けなければならなくなるそうです)

実際、早稲田大学の東門明選手が、日米大学野球の試合中に、送球を頭に受けて死亡するという事件があったそうですが、塁上のクロスプレーは、野手と走者、どちらが主導権を握って相手を避けさせるかにかかっていたそうで、

吉田さんは、自身がもともとテーマにしていた「可能な限り素早く送球する」ことが、 野手にとって不可欠な技術であると、この日米試合で確信したのだそうです。

(ちなみに、日本は15敗1分とほとんど歯が立たなかったそうです)

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「アウトスタンディング・プレイヤー(最も傑出した選手)」に選ばれていた

そんな中、ヤンキースは離日前、日本の「アウトスタンディング・プレイヤー(最も傑出した選手)」をナインの投票によって選出したそうですが、

なんと、吉田さんが選ばれて、トロフィーをもらい、ケーシー・ステンゲル監督から、

ヨシダをぜひアメリカに連れて帰りたい。彼なら、メジャーで十分にやっていけるよ

と、言われたそうで、

吉田さんは、社交辞令と分かっていても、うれしかったそうです。


牛若丸の履歴書

「吉田義男は三宅秀史と鎌田実と共に「黄金の内野陣」と呼ばれていた!」に続く

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