横浜ベイスターズでは、権藤博前監督の選手の自主性を尊重する野球を否定し、勝敗重視の緻密な野球を推し進めるも、監督就任2年目の2002年には最下位を独走し、シーズン途中で解任された、森祇晶(もり まさあき)さんですが、最大の原因は、谷繁捕手がFAで移籍したことだと言われています。

「森祇晶の横浜監督時代は2年目に最下位独走しシーズン途中に解任されていた!」からの続き

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横浜ベイスターズは権藤博前監督の放任野球を変えるため森祇晶に白羽の矢を立てていた

権藤博前監督の野球は、

  • 全体ミーティングをやらない(選手の自主性を失わせるという理由から)
  • バントをしない
  • 夜間練習はしない
  • 簡単なサイン以外はない(優勝メンバーはアイコンタクトや阿吽(あうん)の呼吸で連携していた)

と、選手の自主性を重んじるものだったそうで、

優勝(1998年)⇒3位(1999年)⇒3位(2000年)という成績を残していたのですが、権藤監督の放任主義は必ずしも横浜ベイスターズの選手に受け入れられたわけではなく、選手たちと深刻な軋轢(あつれき)も生じていたといいます。

そこで、横浜フロントは、ベイスターズの野球を変えることを期待し、森さんに白羽の矢を立てたそうですが・・・

谷繁元信捕手の攻めのリードが気に入らなかった

森さんが、監督就任後、権藤前監督の方針を全否定し、監督が主体となって選手を動かす野球を推し進め、何もかも自分好みのチームに変えようすると、谷繁元信捕手との間に確執が生じたといいます。

というのも、森さんは、谷繁捕手の捕手目線でのリードが気に入らず、「ベンチの指示通り投手にサインを出せ」と、ベンチからサインを出していたそうですが、谷繁捕手は理解できないのか、理解していたとしても反応が遅くプレーがちぐはぐだったそうで、

森さんは、そんな谷繁捕手に対して、

あんなリードしておいてよく捕手やってんな

と、陰でぼやいていたほか、

レギュラーは遊撃以外決まっていない。捕手が谷繁とは限らない

などと、言い放っていたというのです。

(森さんの野球は守りの姿勢で耐え抜くといった堅実な方針だったことから、谷繁捕手の攻めのリードが気にいらなかったほか、横浜ベイスターズの豪快で男らしいと言われていたプレーは、雑なプレーだと感じていたのだそうです)

谷繁元信と確執が生じていた

一方、谷繁捕手は、当初は、ベンチで森さんの横に座り素直に話を聞いていたそうですが、森さんが陰で自分の悪口を言っていると人づてに聞くと、次第に、森さんの性格に嫌気が差し、ベンチでも離れて座るようになってしまったといいます。

また、これまで、大矢監督と権藤監督に「一流捕手」と言われて重宝されていたにもかかわらず、森さんに今までの野球がすべて間違っていたと言わんばかりに、一から指導されたことも、確執の一因になったと言われています。

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谷繁元信の退団による戦力の低下は否めなかった

そんな谷繁捕手は、野手陣の中で唯一人、最後まで権藤前監督の方針を支持したことから、次第にチーム内で居場所を失っていき、(1998年に日本一になった横浜に愛着はあったものの)2001年オフ、森さんと球団の方針を知って、追い出されるようにFAで中日に移籍します。

実際、森さんは、谷繁捕手がFAに移籍しても、相川亮二選手で穴埋めできると考え、谷繁選手を引き止めなかったのですが、現実的には、就任2年目の2002年、谷繁捕手の抜けた穴は埋まらず、深刻な戦力ダウンとなって、最下位に低迷。森さんは、同年9月25日に契約を1年残して解任されたのでした。

(森さんは、権藤博前監督の方針を批判するコメントのほか、敗戦の責任を選手に直接言わず、マスコミに漏らすなどしていたそうで、次第に、選手たちの信頼関係も薄くなっていったといいます)

「森祇晶は3人目の妻とハワイに永住していた!」に続く

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