1945年8月15日、玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞き、敗戦を知るも、日本に帰るあてがなかったことから、そのまま、倉庫管理係を続けていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、上海近くの呉淞(ウースン)という拠点に移動すると、捕虜収容所に入れられたそうですが、ここでも恵まれた環境だったといいます。

「杉下茂の兄は沖縄戦で米艦に突撃して戦死していた!」からの続き

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終戦後も帰るあてがなく倉庫管理を続けていた

1945年8月15日には終戦するも、杉下さんは、日本に帰るあてがなかったことから、そのまま倉庫の管理を続けていたそうですが、10月1日に中国軍が倉庫の物資を接収に来るという情報が入ったそうで、

倉庫管理係は少人数だったため、捕まってひどい目に遭わされるかもしれないとの不安から、前日の9月30日、大八車(木製の人力荷車)に乗るだけの荷物を乗せて、上海近くの呉淞(ウースン)という拠点に移動したそうです。

(この間、杉下さんは(9月17日が誕生日のため)20歳になっていたそうですが、それどころではなかったそうです)

呉淞で捕虜収容所に入れられるも恵まれていた

そんな杉下さんは、仲間5人と、呉淞(ウースン)へ歩いて移動したそうですが、そこでは、いきなり、中国兵に銃を突きつけられて武装解除を命じられ、その後、(見せしめのため)丸腰で大八車を引かされ、上海の街を歩かされたそうで、いつ殺されるかと、生きた心地がしなかったそうですが、

収容所での生活が始まると、捕虜といっても敵に管理されているわけではなかったことから、シベリアや南方のように強制労働もさせられず、暴力を振るわれることもなかったうえ、もともと、日本軍の拠点だったことから、食料も豊富にあり、(豚を飼っていて)とんかつも食べることができたほか、残飯が出るほど食料には困らなかったのだそうです。

(慰問団がやって来て、一緒に芸人のまねごとをするなど、楽しいことまであったそうです)

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鬱屈とした気持ちを発散するため野球大会まで開かれていた

それでも、収容所(日本人捕虜が2000人ほど暮らしていたそうです)では、みな、鬱屈とした気持ちを抱え、爆発寸前だったそうで、

(実際、騒いで中国兵に取り押さえられたこともあったそうです)

このままでは、本当の暴動に発展しかねないと、スポーツならやっていいということになり、野球大会が開かれるようになったのだそうです。

「杉下茂は手榴弾の投げ方を野球のピッチングに活かしていた!」に続く

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