中学3年生の時に早慶戦を観て以来、早慶でプレーすることに憧れを抱いていたことから、慶應義塾大学のOBに誘われ、愛知県豊橋での合宿特訓で1日10時間もの受験勉強に励み、慶應大学を受験した、江川卓(えがわ すぐる)さんですが・・・あえなく不合格。ただ、実は、江川さんは合格ラインに達していながら大学側の思惑で不合格になっていたといいます。

作新学院高校時代の江川卓

「江川卓は阪急からドラ1位指名も慶應大進学を希望し拒否していた!」からの続き

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慶應義塾大学は、法学部、商学部、文学部すべて不合格だったが・・・

かねてより憧れていた慶應義塾大学に進学するため、週に何度か宇都宮から愛知県豊橋の受験合宿所に通い、1日10時間の猛勉強に励んだという江川さんですが、慶應義塾大学を受験するも、法学部、商学部、文学部すべて不合格だったそうで、

江川さんは、著書「たかが江川されど江川」で、

社会科の科目変更がモロに響いた。 日本史は一応集中して勉強したつもりだが、 過去、慶応で出題された日本史のデータを調べてみると、明治時代以降の問題はほとんど出ないだろうと判断できた。

そこで自分勝手ではあるが時間の関係もあり、近代史ははじめから捨ててかかっていた。ところが、なんとその年、慶応の日本史の問題は、明治時代以降の問題だったのだ。目から星が・・・。

実力がないといってしまえばそれまでだが、なんとツキのないことか。マークシート方式の解答用紙を前にして、サイコロを転がすような気分で、むなしく答えを選ぶというありさまだった。  

運がないのか、縁がなかったのか、受験した法、商、文学部の全部がアウトだった。つまり、早慶戦でプレーする夢は破れたのだ。

と、綴っています。


たかが江川されど江川

本当は楽々合格ラインを超えていた?

ただ、慶應義塾大学の某OBは、江川さんの慶應義塾大学不合格について、「江川があれほど騒がれる存在でなかったならなあ・・・」と、ため息混じりにもらしつつ、実は、江川さんが楽々合格していたと明かしているのです。

というのも、当時、慶応には、スポーツに優れ、入学後、その方面での活躍が期待される受験生には、最初から入試の点数を上乗せするシステムがあったそうで、江川さんの勧誘は、慶応野球部の大物OBまで乗り出すほど力を入れており、また、理事会への働きかけも相当強力なものだったことから、江川さんの推薦順位は1位だったと考えられていたほか、

作新学院入学時の江川さんの成績は、学年2番で、その後、野球に打ち込んだため、成績は落ちるも、慶応大受験が決まってからは、1日10時間もの猛勉強に励んでいたことから、慶応関係者は江川さんの合格に太鼓判を押していたのだそうです。

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慶應義塾大学を不合格になったのは大学側の思惑が絡んでいた?

にもかかわらず不合格になったのは、当時、私立大学の不正入試が騒がれ、社会問題化していたことが関係しているそうで、

前述の慶應義塾大学の某OBは、

江川を合格にすれば、六大学での彼の活躍を見込んだ裏口入学と騒がれてしまう危険性が大きい。落とせば〝さすが 慶応〟と認められる。そういう大学側の思惑がからんでいた

と、語っており、

江川さんの合否について教授会では大紛糾となるも、結局、慶応はプライドを優先させたというのです。

「江川卓は法政大入学当初は徹底的に基礎練習をさせられていた!」に続く

作新学院高校時代の江川卓

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