1968年、ドラフト1位で阪神タイガースに入団すると、いきなり入団1年目に22本塁打を放って新人王に輝き、その後も、通算1532安打、474本塁打(歴代11位)、1135打点という素晴らしい成績を残した、田淵幸一(たぶち こういち)さん。
今回は、そんな田淵幸一さんの若い頃(高校時代~プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列順にご紹介します。
「田淵幸一の生い立ちは?小3で野球にハマり中3の時に人生初ホームランを打っていた!」からの続き
田淵幸一の10代の頃
高校1年生の時には入部1週間で野球部を退部していた
田淵幸一さんは、甲子園に憧れ、法政一高に進学して野球部に入部するのですが、1年生はグラウンドの外で声出しと球拾いしかさせてもらえず、
さらには、部員は、ほとんどツルツルの五厘刈りにしなければならず、それでも、田淵幸一さんが、髪の毛1センチほどの五分刈りにとどめていると、野球部監督の松永怜一先生から咎(とが)められたそうで、これをきっかけに、入部1週間で野球部を退部したそうです。
甲子園に憧れて、法政一高に進学し、野球部に入部した、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、五厘刈りにしなくてはならないことや、1年生は声出しと球拾いしかさせてもらえなかったことから、1週間で退部したといいます。 「田淵 …
高校1年生の時に野球部復帰後は先輩のシゴキに遭っていた
ただ、それから1週間後、野球部に入っていた同級生から、野球部にまだ在籍しているかの聞き取りがあったそうで、
田淵幸一さんは、野球部を退部したつもりでいたそうですが、野球に未練が残っていたことから、渡された紙に、何気なく「〇(在籍)」をつけて返したそうです。
こうして、田淵幸一さんは、野球部に復帰したそうですが、辞めたつもりでいた間、先輩に挨拶しなかったという理由で、先輩からのシゴキに遭ったそうです。
高校1年生の時に外野手からキャッチャーに転向していた
また、復帰した以上は、五厘刈りにしなければならなかったほか、相変わらず、声出しと球拾いをさせられるなど、散々だったそうですが、その後は、二度と野球を辞めようとは思わなかったそうです。
そして、外野手として球拾いばかりさせられる毎日の中、ふと、ブルペンで捕手が1球1球ボールに触っているのを見て、ボールに触りたい一心で、誰もやりたがらない打撃捕手(ブルペンで投手の球を受ける捕手)を志願したそうで、その後、本格的にキャッチャーに転向したのだそうです。
そんな田淵幸一さんは、高校3年生の最後の夏、全国高等学校野球選手権東京大会に出場すると、準々決勝まで勝ち進んだそうですが、サヨナラ負けを喫してしまい、残念ながら、甲子園出場は叶わず、プロからの誘いもなかったそうです。
大学1年生の時はエリート扱いの特別待遇だった
田淵幸一さんは、高校卒業後は法政大学に進学すると、松永怜一監督の口利きで、1年生でありながら、いきなり、エリートしか入れない合宿所(寮)に入れてもらい、しかも、すぐに、ユニフォーム(背番号は「22」)を着せてもらうという特別待遇を受けたそうで、
高校1年生の時、球拾いが嫌でブルペン捕手に志願すると、やがて、松永怜一監督から本格的に捕手をするように言われ、マンツーマンの特訓を受けたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、高校卒業後、法政大学に進学すると、ち …
1965年春、東京六大学野球リーグ戦で、2カード目の早稲田2回戦に、6回からキャッチャーとして初出場すると(これが神宮デビュー)、続く東大戦では、正捕手に抜擢され、8番でスタメン出場したそうです。
すると、同年5月15日の慶應1回戦では、2点を追う8回、2死一塁という場面で、第1号となる同点2ランホームランを打ち、9回、押出しの四球で法政大学がサヨナラ勝ちをしたのでした。
(田淵幸一さんは、特別待遇だったことから、周囲からは白い目で見られていたそうですが、大事な試合で貴重な一発を打ったことから、周囲の見る目も変わったそうです)
法政大学時代の田淵幸一さん。
大学1年生の時に「第4回アジア大会」の日本代表メンバーに1年生でたった1人選出されていた
また、田淵幸一さんは、フィリピン・マニラのリサール球場で行われた「第4回アジア大会」の日本代表メンバーに、1年生でたった1人選ばれると、
1965年12月4日、フィリピン戦では、場外ホームランを放つ活躍をしたそうで、外野フェンスには、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースと共に、田淵幸一さんの名前が記されたそうです。
高校時代の恩師である松永監督が法政大でも監督だったことから、1年生にもかかわらず、すぐにユニフォームを着させてもらうほか、エリートしか入れない合宿所(寮)にも入れてもらったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、当初 …
大学4年間で22本塁打を放ち、東京六大学野球リーグ記録の通算8本塁打を大きく更新
そんな田淵幸一さんは、その後も、安定したバッティングでホームランを量産すると、大学4年間で22本塁打を放ち、それまでの東京六大学野球リーグ記録だった通算8本塁打を大きく更新したのでした。
1965年春、慶應戦で東京六大学野球リーグ第1号を放つと、その後も、安定したバッティングでホームランを量産した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、結局、大学4年間で22本塁打を放ち、それまでの東京六大学野球リーグ記録だ …
田淵幸一の20代の頃
22歳の時に阪神タイガースにドラフト1位指名を受け、阪神に入団
そして、1968年、大学4年生の秋には、5球団からスカウトされる中、巨人の川上哲治監督に巨人入りを熱心に誘われたそうで、田淵幸一さんは、もともと巨人ファンだったことから、巨人入り以外は考えられなくなったそうですが、
東京六大学野球で通算22本塁打という新記録を樹立した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、ドラフトを前に、5球団から誘われる中、憧れの巨人の川上哲治監督から熱心に誘われ、巨人入り以外は考えられなくなっていたそうですが・・ …
いざ、同年11月12日、いよいよドラフト会議が始まり、巨人の指名順位はというと8番だったそうで、がっかりしたそうです。
すると、その後、1度も挨拶に来なかった阪神が1位指名してきたそうで、耳を疑うと同時に、1度も挨拶にこなかった阪神に怒り心頭となり、阪神入団を拒否し、社会人野球に入ると断言したのでした。
(当時のドラフトは現在のような方式ではありませんでした)
1度も挨拶に来なかった阪神が、ドラフトでいきなり1位指名してきたことに、怒りが爆発した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、阪神へは入団せず、社会人野球に行くことを断言していたといいます。 「田淵幸一はドラフトで阪神に1 …
そんな中、田淵幸一さんは、希望球団である巨人の沢田幸夫スカウトと密会しようとしたところを報じられてしまい、当時のドラフト制度でも、交渉は「交渉権を得た球団」にしか認めらていなかったことから、沢田幸夫スカウトの行動が問題視され、また、田淵幸一さんにも、「田淵はドラフトを潰す気か!」と非難の声が殺到。
ドラフト前に一度も挨拶に来なかった阪神タイガースから1位指名されたことから、入団を拒否し、社会人野球に行くことを明言した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、ドラフト会議の翌日に、阪神の佐川直行スカウトが挨拶に来ても、考 …
田淵幸一さんは、自宅で、法大の浦賢二郎理事、松永怜一監督を交えて約2時間の話し合いを行うと、最終的には、阪神に入団することを決めたのだそうです。
阪神からドラフト1位で指名されるも、ドラフト前に一度も挨拶に来なかった不信感から、社会人野球に入るつもりだったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、希望球団である巨人の沢田幸夫スカウトと密会しようとしたところを …
22歳の時にオープン戦では60打席目で初ホームランを放っていた
すると、田淵幸一さんは、阪神タイガースに入団して最初の春のキャンプで、「内角高め」に弱点があることが各球団に知れ渡り、1年目の1969年のオープン戦直後は、内角高めを攻められ、なかなか、打てないでいたそうですが、
1968年12月17日、阪神と正式に契約を交わした、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、翌年1月から始まった合同自主トレでは、捕手としてはまずまずの評価も、打者としては長距離打者として高く評価されていたのですが、高知・安 …
1969年1月の合同自主トレでは、長距離打者として高く評価されるも、2月に始まったキャンプでは、「内角高め」に弱いことが発覚した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、その後、連日、強化特訓に励むも、同月22日の阪急ブレー …
3月26日、60打席目となるロッテとのオープン戦で、外角高めのストレートをとらえ、ついに初ホームランを放ちます。
阪急とのオープン戦では、内角高めを攻められ、全く打つことができずに終わるも、取材に対しては、笑顔で答えるなど、余裕を見せていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、3月26日、ロッテとのオープン戦で(60打席目)、ついに …
1969年3月26日、ロッテとのオープン戦で、60打席目にして、ようやく初ホームランが出た、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、実は、このホームラン、ロッテバッテリーによる温情で打たせてもらった一発だったそうで、その …
22歳の時に開幕2試合目で2打席連続本塁打を放っていた
ただ、その後は、再び、パッタリと打てなくなり、1969年4月12日の開幕戦となる大洋ホエールズ戦では、9回に代打で出場するも、大洋のエース・平松政次投手の速球に全く手が出ず、3球三振に倒れてしまうのですが・・・
阪神タイガースに入団して最初の春のキャンプで「内角高め」に弱点があることが各球団に知れ渡ると、オープン戦では、弱点の「内角高め」を攻められ、思うようなバッティングが出来なくなっていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、 …
その翌日の4月13日、大洋ホエールズとのダブルヘッダーの第2試合では、2打席連続本塁打を放つと、以降、順調にホームランを重ねていったのでした。
公式戦初打席の平松政次投手との対戦では、速球に全く手が出ず、3球三振に倒れた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、その翌日の、大洋ホエールズとのダブルヘッダーの第2試合では、2打席連続本塁打を放ち、周囲を驚かせたとい …
22歳の時にはオーナーの「田淵は捕手で育てろ」の司令に落胆していた
ちなみに、そんな田淵幸一さんも、やがては成績が下降したそうで、打撃を活かすために、捕手から一塁手に転向させられると、再び、調子を取り戻したそうですが、
7月3日には、野田誠三オーナー(阪神電鉄社長)から後藤監督に、「田淵は捕手で育てろ」の指令が下ったそうで、田淵幸一さんはせっかく調子が戻って来たところを捕手に戻されてしまい、落胆したといいます。
開幕2日目に2打席連続ホームランを放つと、その後も、順調にホームランを重ねていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、やがて、成績が下降したことから、打撃を活かすため、捕手から一塁に転向を命じられると、再び、勢いを取 …
22歳の時1年目でオールスターに選ばれホームランを放っていた
そんな中、オールスター出場者を決めるファン投票が行われると、田淵幸一さんは、ファン投票ダントツ1位でオールスターに選出されるほか、1969年7月19日に開催されたオールスター第1戦では、金田正一さんに激励されたことをきっかけに、レフトスタンドへ同点ホームランを放っています。
キャッチャーから負担の少ないファーストに転向し、本来の打棒を取り戻しつつあった中、フロントの現場介入で、再び、キャッチャーに戻され、落胆していたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、そんな中、ファン投票ダントツ …
22歳の時に残り15試合で7本塁打し「新人王」を獲得
ただ、それからは、またしても、打てなくなったそうですが、後藤次男監督に命じられ、再び、捕手から一塁手に転向すると、
その後は、残り15試合で7本塁打と言う離れ業で、絶望視されていた「新人王」を獲得したのでした。
ルーキーイヤー(1969年)には、オールスター前に10本塁打し、新人王を期待された、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、ファン投票ダントツ1位でオールスターに選出され、オールスターでもホームランを放っているのですが、オー …
22歳の時に阪神のエース・江夏豊と「黄金バッテリー」と呼ばれるようになっていた
そんな田淵幸一さんは、やがて、阪神のエース・江夏豊さんとともに、「黄金バッテリー」と呼ばれるようになったのでした。
田淵幸一さん(左)と江夏豊さん(右)。
ルーキーイヤーのオープン戦では、弱点の内角高めを攻められ、自分のバッティングを崩されていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、ペナントレースが開幕すると、2日目にして、2打席連続ホームランを放つなど、ホームランを連 …
23歳の時に左こめかみに死球を受け4日間意識不明となっていた
田淵幸一さんは、プロ入り2年目の1970年も、順調に本塁打を量産していたそうですが、同年8月26日の広島戦で、外木場義郎投手から左こめかみに死球を受け、4日間も意識不明となってしまいます。
ただ、その後、意識を取り戻すと、順調に回復し、同年11月16日、甲子園の秋季練習への参加で復帰しています。
デッドボールを左こめかみに受けて倒れる田淵幸一さん。
ルーキーイヤーの1969年には、シーズン終盤に盛り返して22本塁打し、「新人王」に輝いた、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、プロ入り2年目の1970年も、オールスター前に17本塁打と、順調に本塁打を量産していたのですが …
1970年8月26日の広島戦で、外木場義郎投手から左こめかみに死球を受け、4日間もの間、意識不明となっていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、実は、この日、外木場投手からは、最初の打席にも肘に死球を受けていたとい …
27歳の時に首位巨人と1ゲーム差の直接対決で逆転満塁ホームランを放っていた
そんな田淵幸一さんは、1973年10月10日、27歳の時には、首位・巨人に1ゲーム差で迎えた巨人と直接対決で、5対2とリードされる中、6回表、2死満塁の場面で、逆転満塁ホームランを放ち、阪神の勝利に大きく貢献しています。
1973年、阪神タイガースは、9月23日から10月10日の間、7連勝と4連勝を含む11勝1敗で、一気に首位の巨人を抜き去り、首位に立っているのですが、その躍進には、主軸を担っていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんも大き …
29歳の時には王貞治を抑えて本塁打王に輝いていた
また、田淵幸一さんは、1975年には、43本塁打を放ち、巨人の王貞治さんの14年連続本塁打王を阻止して本塁打王に輝いているのですが、
この年の5月29日には、左手首にデッドボールを受け、痛みと腫れが残る中で、右腕1本で2発ものホームランを放っていたといいます。
1975年には、43本塁打を放ち、巨人の王貞治さんが13年君臨していた本塁打王の座を奪取している、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、実は、5月29日、中日8回戦で鈴木孝政投手の快速球が左手首に当たり、骨折こそしなか …
田淵幸一の30代の頃
32歳の時には阪神球団に深夜に呼び出され、トレードを通告されていた
しかし、田淵幸一さんは、1978年11月、32歳の時には、阪神球団から深夜に呼び出され、西武ライオンズへ「トレード」を通告されてしまい、
阪神の主砲として活躍していた田淵幸一さんにとって、この通告は簡単に受け入れられるものではなく、引退も考えたといいます。
(振り返ってみれば、阪神には、事前に一言の挨拶もなしにドラフトで1位指名してきたことから始まっており、最後は、深夜に呼び出されてさらし者にされ、田淵幸一さんは阪神に怒りがこみ上げていたといいます)
1968年に阪神タイガースに入団して以来、10年で9度の20本塁打以上を達成するほか、1975年には、巨人の王貞治さんの14年連続本塁打王を阻止して本塁打王に輝くなど、素晴らしい活躍をした、田淵幸一(たぶち こういち)さ …
1968年に阪神タイガースに入団して以来、1978年までの10年間で、球団史上最多本塁打となる通算320本塁打を放ち、ミスタータイガースと呼ばれていたにもかかわらず、1978年には、まさかのトレードを通告された、田淵幸一 …
それでも、最終的には、西武ライオンズの根本陸夫監督の人柄に惹かれてトレードを受け入れ、西武ライオンズへ移籍したのだそうです。
阪神では10年間で320本塁打して看板選手として活躍するも、1978年のシーズン終了後、阪神球団に、非常識にも、深夜に呼び出され、西武へのトレードを告げられたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、一時は、引退するこ …
35歳の時に5年ぶりとなる自己最多タイの43本塁打を記録
すると、田淵幸一さんは、西武ライオンズ移籍1年目の1979年は、開幕から4番を任されるのですが、前期はパッとしないまま終わってしまいます。
ただ、下半身を鍛えるためにランニングを始めると、根本陸夫監督がアメリカンノックに付き合ってくれ、シーズン終盤には、打棒を取り戻すことができたそうです。
そして、西武ライオンズ2年目の1980年には、5年ぶりとなる自己最多タイの43本塁打を記録したのでした。
35歳の時に広岡達朗が監督に就任し「管理野球」についていけないと感じていた
しかし、3年目の1981年には、右膝を痛めて戦線離脱を余儀なくされてしまい、さらに、追い打ちをかけるように、この年限りで、慕っていた根本陸夫監督が退陣して、広岡達朗監督となると、
広岡達朗監督の提唱する「管理野球」についていけないばかりか、広岡達朗監督からは、「給料泥棒」などと、全選手の前で批判されたのだそうです。
(その後、田淵幸一さんは、広岡達朗監督に不満を持つ他の選手たちに、優勝して胴上げの時に広岡達朗監督を最後に落とそうと、提案したといいます)
1981年には、慕っていた根本睦夫監督が退任し、後任に広岡達朗監督が就任すると、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、広岡監督から「給料泥棒」などと、全選手の前で批判されていたといいます。 「田淵幸一は広岡達朗が西武監督就 …
根本陸夫監督がアメリカンノックに付き合ってくれたこともあり、西武ライオンズ1年目の終盤頃から本来の打棒を取り戻した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、西武ライオンズ2年目の1980年には、5年ぶりとなる自己最多タイの4 …
36歳の時に西武でプロ14年目にして初のリーグ優勝と日本一を経験
その後も、田淵幸一さんは、広岡達朗監督に痛烈に批判され、ついていけないと思っていたそうですが、1982年、プロ14年目にして西武で初のリーグ優勝と日本一を経験すると、広岡達朗監督のやり方は間違っていなかったと感じたといいます。
西武ライオンズでプロ14年目にして初のリーグ優勝と日本一に輝き、喜びを爆発させる田淵幸一さん。
西武の監督が広岡達朗監督になると、いきなり、全選手の前で、東尾修さん共に批判されたうえ、禁酒、禁煙、自然食、玄米食の摂取を強要され(管理野球)、その後も、痛烈に批判され、ついていけないと感じていたという、田淵幸一(たぶち …
38歳の時に現役を引退
その後、田淵幸一さんは、翌年の1983年も西武ライオンズの日本一に大きく貢献すると、1984年も、4月には、リーグトップの27打点を記録したそうですが(打率2割8分6厘、5本塁打)、
2年前から症状が出始めていたという花粉症がひどくなり、ゴールデンウィーク明けには、花粉症の症状は緩和したものの、今度は体が動かなくなり、スタンド中段までいったと思った打球がフェンス際で失速するようになると、
6月にはスタメンをはずれることが多くなったことから、引退を考えるようになったそうです。
1982年、1983年と、西武ライオンズの日本一に大きく貢献した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、1984年も、4月には、リーグトップの27打点を記録したそうですが(打率2割8分6厘、5本塁打)、2年前から症状が出始 …
そんな中、監督推薦でオールスターゲームに選ばれたそうですが、第2戦の甲子園球場での9回、投手の東尾修さんに打順が回ってきたため、代打の準備をしていたところ、
なんと、代打は告げられず、そのまま東尾修さんが打席に入ったそうで、張り詰めていたものが音を立てて切れ、1984年9月23日、現役引退を発表したのだそうです。
現役引退した田淵幸一さん。
1984年は、開幕から好調も、ゴールデンウィーク明け頃から、体が思うように動かなくなり、打球がフェンス際で失速するようになると、オールスターには監督推薦で出場するも、第2戦、9回、投手・東尾修さんに打席が回ったときに代打 …
1968年、ドラフト1位で阪神に入団し、いきなり入団1年目に22本塁打を放って新人王に輝くと、その後も、通算1532安打、474本塁打(歴代11位)、1135打点という素晴らしい成績を残し、2020年には野球殿堂入りも果 …
「【画像】田淵幸一の若い頃(監督・コーチ時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1989年には、ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)の監督に就任するほか、盟友・星野仙一さんに誘われ、阪神タイガース、北京五輪、楽天イーグルスではコーチも歴任した、田淵幸一(たぶち こういち)さん。 今回は、そん …