甲子園に憧れて、法政一高に進学し、野球部に入部した、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、五厘刈りにしなくてはならないことや、1年生は声出しと球拾いしかさせてもらえなかったことから、1週間で退部したといいます。

「田淵幸一は中3の時ご褒美のカツ丼につられ逆転満塁本塁打を打っていた!」からの続き

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法政一校(現・法政大高)に進学し野球部に入部するも1週間で退部していた

田淵さんは、1962年4月、甲子園を夢見て、法政一校(現・法政大高)に進学し、野球部に入部するのですが、入部後たった1週間で練習に行かなくなったといいます。

というのも、田淵さんは、ある日、野球部の監督で体育の先生でもあった松永怜一先生から、授業中、

おまえ、野球部だったよなあ。何だ、その頭は。決まりが守れないんだったら辞めろ!

と、言われたそうで、

野球部ではほとんどツルツルの五厘刈りにしなければならなかったところ、田淵さんは(入部と同時に生まれて初めて丸刈りにしたものの)髪の毛1センチほどの五分刈りにとどめていたことから、それを咎(とが)められたそうですが、

田淵さんは、1年生がグランドの外で声出しと球拾いしかやらせてもらないことにも不満を抱いていたことから、この一言をきっかけに野球部を退部したのだそうです。

退部して1週間で野球部に復帰していた

しかし、それから1週間後、ちゃんと野球部の練習に出ていた同級生から

野球部まだやってるかどうか○か×をつけろ

と、言われ、紙を差し出されると、

(新入部員は当初120人いたそうですが、毎日10人単位で練習に来なくなったため、誰が部員かわからなくなっていたのだそうです)

田淵さんとしては、野球部を退部したつもりだったのですが、野球に未練が残っていたようで、何気なく「○」をつけて返したそうですが・・・

野球部に復帰すると先輩からのしごきが待っていた

田淵さんが野球部に復帰すると、待っていたのは、(辞めたつもりでいた間)挨拶をしなかった先輩からのしごきだったそうで、この時、田淵さんは、すでに身長が180センチあったことから、椅子に乗って殴られたこともあったそうです。

また、復帰した以上は、五厘刈りにしなければならず、青々とした頭で電車に乗るのが恥ずかしかったほか、相変わらず、声出しと球拾いをやらされ、散々だったそうですが、二度と野球を辞めようとは思わなかったのだそうです。

ボールに触りたい一心で打撃捕手を志願していた

そんな田淵さんは、外野手として球拾いばかりさせられていたそうですが、ある日のこと、つまらんなぁと思いつつ、ブルペンを見ると、捕手が1球1球ボールに触っているのが見えたそうで、

これだ!

と、ボールに触りたい一心で、誰もやりたがらない打撃捕手(ブルペンで投手の球を受ける捕手)を志願し、学校が貸してくれた、ボロボロのプロテクターをつけ、汚いミットを持って打撃捕手をするようになったのだそうです。

(1球ごとに立って座ってを繰り返すため、最初は階段を上れないほどの筋肉痛になったそうです)

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キャッチャーに転向し松永怜一監督のマンツーマンノックを受けていた

すると、そのうち、松永監督から、

おまえは手首の使い方がうまいなあ。キャッチャーをやれ

と、言われ、本格的にキャッチャーに転向したそうで、

すっかり日が暮れ、ろくにボールも見えない暗闇の中、松永監督のマンツーマンのノックが始まったそうですが、

(闇の中でもボールが見えるように、ボールに石灰を塗ったそうです)

松永監督が打ち上げたフライを、ミットの芯で捕らえなければならず、捕っても、芯を外し、ボソッという音がすると、バットでお尻を叩かれたのだそうです。

(高校2年生の時には、捕手に必要なスナップスローを身に着けるため、二塁手もやらされたそうです)

「田淵幸一は法政大では1年生ながら特別待遇を受けていた!」に続く

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