高校1年生の時、球拾いが嫌でブルペン捕手に志願すると、やがて、松永怜一監督から本格的に捕手をするように言われ、マンツーマンの特訓を受けたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、高校卒業後、法政大学に進学すると、ちょうど松永監督も、法政大学の野球部の監督に就任していたそうで、田淵さんは、1年生ながら特別待遇を受けたといいます。

「田淵幸一は高1の時に野球部を1週間で退部していた!」からの続き

Sponsored Link

松永監督の特訓でキャッチャーとしての技術が向上し自信がつく

外野手として球拾いばかりさせられている中、ブルペン捕手が1球1球ボールに触っているのを見て、ボールに触りたい一心で、志願して、誰もやりたがらない打撃捕手(ブルペンで投手の球を受ける捕手)をするようになったとという田淵さんですが、

やがて、松永怜一監督から、手首の使い方がうまいことをほめられて、本格的にキャッチャー転向すると、松永監督のスパルタ特訓のおかげで、みるみるうちに技術が向上したそうで、それに伴い、自信もついてきたそうです。

ただ、打撃の方はというと、胃腸が弱かったことから、とにかく細く、力不足で、打球もそれほど飛ばなかったそうです。

(この時、田淵さんは、身長が180センチ以上あったそうですが、体重は70キロあるかないかだったそうで、高校時代のあだ名は「キリン」「もやし」だったそうです)


高校3年生の頃の田淵さん。

風邪がきっかけで打撃のコツをつかむ

そんな中、3年生になる年の春休み、茨城県石岡市での合宿で、到着した当日、雪が舞う中、延々と走らされたことから、その夜、風邪で発熱したそうで、2、3日練習を休んで、ようやく熱が下がり、練習に合流したそうですが、

(正捕手を争うライバルの)部員にボールを投げてもらい、打撃練習をしたところ、打球は、次から次へと、レフト後方の馬場へ飛んでいったそうで、病み上がりのフワフワとした体ながら、柵越えを連発。

この時、田淵さんは、自然体で構え、無駄な力を入れず、インパクトの瞬間だけ力を入れて、遠心力でボールを飛ばすコツをつかんだそうで、打撃でも敵がいなくなり、正捕手の座を不動のものにしたのだそうです。

甲子園は準々決勝で敗退

そんな田淵さんは、高校最後の夏、全国高等学校野球選手権東京大会に出場では、準々決勝まで勝ち進んだそうですが、

準々決勝の日大二高戦では、ホームランを放つも、最終的には、3対4でサヨナラ負けを喫し、残念ながら、甲子園には届かなかったそうで、

プロからの誘いもなく、目標を”甲子園”から東京六大学野球が行われる”神宮”へと変えたのだそうです。

Sponsored Link

高校時代の恩師・松永怜一監督が法政大でも監督だったことから優遇されていた

こうして、田淵さんは、1965年、高校卒業後は、法政一高の系列である法政大学に進学し野球部に入ったそうですが、田淵さんが高校1年生と2年生の時、スパルタで鍛えてくれた松永怜一さんが、ちょうど、法政一高の系列である法政大学の野球部の監督に就任していたそうで、

(松永監督は、田淵さんが高校3年生になる時、法政一高から堀越学園の監督になっていたそうですが、堀越学園は1年で辞め、法政大学の監督になっていたのだそうです)

田淵さんは、松永監督の口利きで、1年生でありながら、いきなり、エリートしか入れない合宿所(寮)に入れてもらい、しかも、すぐに、ユニフォーム(背番号は「22」)を着せてもらったのだそうです。

(田淵さんは、後に、山本浩司(後に浩二)さんと富田勝さんと共に「法政三羽烏」と呼ばれるのですが、3人の中でも田淵さんの扱いは別格だったそうで、山本浩司さんと富田勝さんは3年生になってようやく合宿所に入寮できたのだそうです)

「田淵幸一はアジア大会日本代表に1年生で唯一選ばれていた!」に続く


我が道

Sponsored Link