以前、入部を断られていた浪華商業高等学校野球部の監督兼部長の中島春雄先生には、この日の面接でも、すんなり受け入れてもらえなかったことから、半ば諦め気味だったという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、その後、お兄さんのお陰で、中島先生にプレーを見てもらえ、最終的には、中島先生から編入試験を受けるように言われたといいます。
兄が浪商の監督兼野球部部長・中島春雄に懸命に頼み込んでくれプレーを見てもらうことに
お兄さんには浪商への転校を許してもらうも、肝心の、浪華商業高等学校野球部の監督兼部長の中島春雄先生がすんなり受け入れてくれず、張本さんは、「もうだめなのかな」とあきらめかけていたそうですが、
その瞬間、お兄さんから、
ちょっとお前は外に出ていろ
と、言われ、一人、廊下に出ると、
お兄さんが、中島先生に、
弟は暴れん坊だけれど、浪商に入りたいという気持ちは真剣です。せめてプレーを見てやってもらえませんか。それでだめならあきらめて帰ります
と、懸命に頼んでくれたそうで、
中島先生は、そんなお兄さんの熱意に押されて、張本さんのプレーを見てくれることになったそうです。
中島春雄から浪商の編入試験を受けるよう勧められる
そこで、張本さんが必死でアピールすると、中島先生は、しばらく(10分程度)、黙って見つめていたそうですが、やがて、
野球の力はだいたい分かった。編入試験を受けなさい
と、言ってくれたのだそうです。
(半分あきらめかけていただけに、本当に嬉しかったそうです)
兄が学費も生活費も工面してくれていた
こうして、その後、張本さんは、中島先生から学校近くの学生下宿も紹介してもらったそうですが、お兄さんはというと、この下宿に1週間ほど一緒に泊まり、張本さんの新しい生活のために、あれこれと世話をしてくれたうえ、
諭(さと)すように、
いいか勲、よく聞け。ワシのひと月の給料は多くても2万3000円。そのうちの1万円をお前に仕送りしてやる。
ひと月の下宿代が6500円。残りで何とか生活しろ。学費は夏と冬のボーナスでなんとかしてやる。おまえが高校に行く3年間だけ、ワシが我慢する
と、言ってくれたそうで、
後に、張本さんは、26歳で遊びたいざかりの時に、汗水たらして働いたそのお給料から、半分ものお金を自分に送金してくれたお兄さんには、どんなに感謝しても感謝しきれないと、語っています。
(ちなみに、1957年頃には、フランク永井さんの「13800円」という歌が流行っており、当時、大卒の初任給がこれくらいだったそうですが、タクシーの運転手をしていたお兄さんは、1ヶ月間、目一杯働いた給料が2万円ほどだったそうです)
浪華商業高等学校に進学するも1ヶ月1万円の生活は大変だった
とはいえ、1ヶ月1万円で生活するのは大変だったそうで、財布に30円くらいしかなくなると、お風呂に行こうかパンを買おうか迷い、最終的には、お風呂をあきらめ(濡らした冷たいタオルで体を拭いて我慢し)、パンを買っていたそうです。
(特に、冬の寒い日には、温かいお風呂に入り、汗で汚れた体を洗い流したかったそうです)
「張本勲は高2のとき巨人の水原茂監督から直々にスカウトされていた!」に続く