浪華商業高等学校(浪商)時代には、高校3年生になる直前、野球部部長から、部室で起きた暴力事件の首謀者に仕立て上げられ、甲子園に出場できなくされたという、張本勲(はりもと いさお)さんは、一時は、自殺を考えるほどショックを受けたそうですが、そんな中、親善試合のため、初めて祖国・韓国を訪れると、韓国の高校生を相手にのびのびプレーすることができ、野球への情熱を取り戻していったといいます。

「張本勲は高2のとき濡れ衣で野球部を休部させられていた!」からの続き

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甲子園への道が絶たれ自殺を考えるほどショックを受けていた

濡れ衣を着せられて、甲子園への道を完全に絶たれた張本さんは、自殺を考えるほどショックを受けたそうで、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集さんが親身になって相談に乗ってくれたそうですが、

(張本さんは話を聞いてもらっているうちに涙が出てきて、グラウンドを夜通し走ったそうです)

その後、相当に荒れたそうで、もしこのままだったら、自分でもどうなっていたか分からないほどだったそうですが、

そんな中、甲子園に行けなかった在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選抜チームに、「韓国遠征に行かないか」と誘われたそうで、野球ができるだけでなく、韓国に行けることが嬉しく、喜んでお兄さんに手紙を書いたそうです。

高校3年生の時に生まれて初めて祖国・韓国の地を踏む

ただ、韓国には徴兵制があり、韓国に行ったら兵役に取られると思ったお母さんが反対するほか、周囲もまた、「息子が韓国に行ったら帰ってこれないぞ」などと言って扇動したことから、

張本さんが、民団(在日本大韓民国居留民団(当時)= 日本に定住する在日韓国人のための組織)の責任者に問い合わせてみると、「冗談じゃない」と大声で笑われたそうで、

張本さんは、同年(1958年)8月、プロペラ機で韓国まで飛び、生まれて初めて祖国の土を踏んだのだそうです。

初めての韓国では出迎えの光景に驚く

ちなみに、張本さんは、役員20人、選手17人と共に渡韓したそうですが、ソウルに到着すると、驚いたことが2つあったそうで、

まず1つ目は、飛行機のタラップを降りると、役員の人たちが出迎えの人たちと抱き合って泣いていたこと、そして、もう1つは、続いて張本さんたちがタラップを降りると、周囲で「アリラン」と「トラジ」などの民謡が歌われたことだったそうで、その光景には、思わず足を踏み外しそうになるほど驚いたそうです。

韓国メディアに大きく報道される

さておき、張本さんは、選抜チームの主軸打者として韓国各地で親善試合をすると、当時の韓国高校生の野球のレベルは、お世辞にも高いとは言えなかったそうで、選抜チームは14試合のうち13勝1分けと圧勝したそうですが、

張本さんも打ちまくり、ホームラン賞や最優秀賞選手賞を獲得したそうで、張本さんのバッティングは祖国の野球ファンを驚かせ、韓国メディアにも大きく報道されたのだそうです。

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初めて祖父母に会っていた

また、張本さんは、大邸(てぐ)という都市で試合をした後、バスで2時間くらいかけて、祖父母の家も訪れ、初めて祖父母に会ったそうですが、かなり遠縁の親族までが集まってくれていて、

警察官の叔父さんは、張本さんの顔を見るなり、「張勲(チャンフン)か」と言い、お父さんのお墓に連れて行ってくれたそうで、

(叔父さんは、すぐに張本さんだと分かったったそうです)

張本さんは、著書「もう一つの人生―被爆者として、人として」で、

そんな中で、私ものびのびとプレーすることができました。それにも増して、各地で交流した楽しさや、嬉しさ、くじけかけた野球への情熱がシャンと甦りました。野球に、そして祖国に救われたのです。

ここが父母、祖父・祖母の国かと思うと、それまでには経験したことのなかった感情の高ぶりを感じました。今でも思い出すと、胸がぎゅーっと締め付けられる・・・、これが同胞意識というのでしょうか。

地方の都市、釜山、大田(テジョン)光州(クワンジュ)にも行きました。当時の韓国社会を見て、まず思ったのは「貧しい国だなあ」ということです。

浪商に行って大阪の賑やかな繁華街なども知っていましたから、おおよその比較はできました。私自身は貧しい暮らしをしていましたが、あれほどではありませんでした。

甲子園出場は叶いませんでしたが、この韓国遠征こそが「自分自身の甲子園」になりました。そこで自分は韓国出身の人間なんだと、肌身で感じたのです。応援もすごい。おとなしい国民性ではないなと思いました。

どちらも同胞ですから、両方を応援している。むしろ当時は、在日の私たちのほうを応援する声の方が大きかったのではないでしょうか。情熱のある国民だとも思いました。

と、綴っています。

「張本勲が東映フライヤーズに入団したのは東京に憧れていたから!」に続く


もう一つの人生―被爆者として、人として

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