高校2年生の夏に肩を痛め、前監督の中島春雄先生から勧められてピッチャーからバッターに転向すると、同年秋の近畿大会大阪府予選では、4番・センターで出場して13試合で打率5割11本塁打を打つ活躍をし、2年生の終わりには、プロ野球のスカウトから注目されたという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、高校3年生になる直前、突然、「休部命令」を言い渡されたといいます。

「張本勲は高2のとき肩を痛めて投手から打者に転向していた!」からの続き

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高校3年生になる直前に休部命令を言い渡されていた

1958年、3年生になる直前、張本さんは、突然、「休部処分」を言い渡されたといいます。

というのも、浪華商業高等学校の野球部員が学校に行かないで街でウロウロしているところを補導されたそうですが、その際、その部員が、「学校に行くと野球部の先輩に殴られる」と言ったそうで、

なぜか、副キャプテンだった張本さんが一人で「殴れ」と指示してやったということになっていたのだそうです。

濡れ衣を着せられていた

それで、張本さんを含む数人が責任をとらされ、休部処分となったそうで、そのかわりに、チームの甲子園出場は認められたそうですが、

張本さんは、断じて下級生に対して暴力を指示したことなどなく(そもそも、事件が起きた際、部室にいなかったそうです)、まったくの濡れ衣だったそうです。

高校3年も甲子園出場は許されなかった

実は、野球部の部長が、問題が大きくなる前に誰か「いけにえ」を作って高野連(日本高等学校野球連盟)に届け出て、処分を免れようとしていたそうで、この、理不尽としか言いようのない仕打ちに、張本さんは抗議したそうですが、受け入れられなかったそうです。

それでも、張本さんは、ぎりぎりの我慢をしながら、練習だけは続けていたそうですが・・・

ようやく復部が許されたのは3年の5月で、本来であれば、最後の甲子園の予選には何とか間にあったはずのところ、休部が解けても向こう3ヶ月は試合に出られないという決まりで、甲子園出場は許されなかったのだそうです。

新部長に甲子園に出場できないように仕組まれていた

ここで、初めて、張本さんは、部長がそれを知りながら、自分を休部に追いやったのだと気がついたそうですが、

(さすがに、この時ばかりは、「こんな練習、どうせやっても仕方がない」と、投げやりな気持ちになったそうです)

実は、張本さんは、恩師である野球部部長兼監督だった中島春雄先生が辞任した後も、困ったことなどがあると、その後就任した、野球部長や竹内監督ではなく、引き続き、中島先生のところに相談しにいっていたそうで、

部長はそのことが気に入らず、後に、「なぜ俺に言わないんだ」と言ったことがあったそうですが(部長ではなく、竹内監督という説も)、

張本さんは、「いや、私は中島先生の紹介で野球部に入ったのです。何が悪いんですか」と、言わでものことを言っていたのだそうです。

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朝鮮人嫌いの新部長にハメられていた

そして、これは、後に、竹内監督から直接聞いて知ったことだそうですが、

(竹内監督は泣きながら張本さんにこの話をしたそうです)

この部長は、かねてより、「朝鮮人は嫌いだ」と公言していたそうで(数年前にも陸上部の韓国人選手に同じようなことをしていたそうです)、「朝鮮人は嫌いだから、張本に責任をとらせろ」と言っていたのだそうです。

(張本さんは、この時(17歳)初めて、朝鮮人に対する明確な差別を、自分のこととして経験したのだそうです)

ちなみに、同期の谷本勲さんは、この事件について、

張本は『浪商に来たのは甲子園に出られるから。甲子園に出てプロに行く。プロに行って、契約金で親孝行する』の一心だった。

2年の秋だったかな、練習をサボって喧嘩しとる奴がおった。張本は仲裁に入ったんですが、それが新聞に載ってしまった。仲裁に入っただけなのに、喧嘩をしていたと誤解されて、それで(張本さんは)出場停止になってしまった。

と、語っています。

「張本勲は高3のとき初めて祖国・韓国の地を踏んでいた!」に続く

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