1959年に東映フライヤーズに入団すると、1年目には新人王を獲り、2年目から4年目まで3年連続で3割をマークするほか、3年目には首位打者、4年目にはパ・リーグのMVPと、素晴らしい成績を残した、張本勲(はりもと いさお)さんですが、親友の王貞治さんの打撃練習を見て、衝撃を受けたといいます。

「張本勲はルーキーの年から4番に起用され新人王を獲っていた!」からの続き

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3年連続で3割を打つも・・・

新人王は獲るも、最終試合のダブルヘッダーでは、前日に翌日が雨とたかをくくって朝まで飲み、2試合6打数ノーヒットで打率を落としたことを後悔したという張本さんは、

幼少期に大やけどし右手にハンディを抱えていたこともあり、人一倍努力をしなければやっていけないと自覚し、1日300回の素振りを日課にするなどして、

2年目(1960年)には3割2厘を打ち、3年目(1961年)には3割3分6厘で首位打者を獲得し、4年目(1962年)には3割3分3厘を打ったうえチーム(東映フライヤーズ)が日本一になってパ・リーグの最優秀選手(MVP)に選ばれたそうですが・・・


入団3年目の張本さん。

入団5年目(23歳)の時に王貞治の打撃練習を見て衝撃を受けていた

1963年のオールスターの時のこと、「(プロ入りが同期で同い年で親友の)王(わん)ちゃんを冷やかしてやろう」くらいの軽い気持ちで、試合前に、王貞治さんの打撃練習をのぞきに行くと、

(この時は、プロではまだ、張本さんの方が実績を残していたそうです)

そのスイングの凄さ、打球の鋭さに、「自分は今まで何をしてきたのか」と、衝撃を受けたのだそうです。

(王さんは、高校生の時、ピッチャーとして活躍していたのですが、プロ入り後すぐに打者に転向すると、入団当初は鳴かず飛ばずも、やがて、「一本足打法」で開眼し、4年目の1962年には、本塁打王のタイトルを初めて獲得。以来、13年連続本塁打王に輝くなど、素晴らしい成績を残しています)

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オールスター後は飲みに行かず王貞治を倣ってひたすらバットを振っていた

そのため、いつもなら、オールスターの後は、出場選手みんなでおいしいものを食べたり、飲みに行ったりしていたところ、張本さんは飲みに行かず、王さんに倣(なら)って、宿舎に帰り、ひたすらバットを振ったのだそうです。

ちなみに、その年は、打率2割8分に終わって、4年連続の3割を逃したそうで、翌年は3割2分8厘だったものの、1965年には、2割9分2厘と再び3割を切ってしまったそうで、

張本さんは、著書「もう一つの人生―被爆者として、人として」で、

振り返ると、素振りを真剣にやってこなかったツケが回ってきたのです。気づいて取り返そうとしましたが、取り戻すのに1年半かかりました。慢心しなければ3割打てたかもしれない、その後も後悔ばかりでした。

そこでは「いい時ほど自分を疑え」でなくてはいけなかったのです。

と、綴っています。

「張本勲が二度と野球選手になりたくないと語った理由とは?」に続く


王貞治さん(左)と張本さん(左)。

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