1980年には、前人未到の通算3000安打と日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成するも、翌年の1981年には現役を引退した、張本勲(はりもと いさお)さんは、現役時代は苦しいことがほとんどで、もう野球選手には戻りたくないと語っています。

「張本勲は若い頃に王貞治の打撃練習に衝撃を受けていた!」からの続き

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巨人に移籍し3年間は活躍するも4年目に成績が降下すると戦力外に

1959年に東映フライヤーズ(⇒日拓⇒日本ハム)に入団すると、9年連続を含む13度の3割をマークし、7度の首位打者に輝いた張本さんは、1976年には、ずっと憧れていた巨人に移籍し、長嶋茂雄監督のもと、王貞治さんと「OH砲」と呼ばれる活躍で、巨人のリーグ連覇に大きく貢献するのですが、

1979年には、左目の疾患のため、夏場に40試合ほど欠場し、77試合の出場に終わると、この年は、打率2割6分3厘、8本塁打とそれまでのキャリア最低の成績となり、戦力構想からはずれてしまいます。

前人未到の通算3000安打500本塁打を達成するも現役引退

そして、1980年には、追い出されるようにロッテに移籍すると、同年5月28日には、阪急ブレーブス戦において、前人未到の通算3000安打を達成するほか、

9月28日には、近鉄戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成するのですが・・・

翌年の1981年には、現役を引退しています。

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二度と野球選手になりたくないと語った理由とは?

そんな張本さんは、著書「最強打撃力」で、

さまざまな喜びをかき集めても、23年間の現役生活の15パーセントほどしかない。残り85パーセントは苦しみの日々だった。だから、現役生活をやめたときは、ホッとした。

もう、バットを振らなくていい。もう、四角いバッターボックスに立たなくていい。もう、二度と野球選手にはなりたくない

と、語っているのですが、

著書「もう一つの人生―被爆者として、人として」では、

23年間のプロ野球生活。9割は苦しいことで、また野球選手になれと言われても、もう嫌です。ただ、右手がもとに戻るなら考えますが。でも、このハンディがあったから、ここまでやってこれたとも言えます。

とも、語っており、幼少期に大やけどを負った右手のハンディを背負ってのプレイが辛かったようです。

また、

そもそもプロ野球選手になりたいと思ったのは、おいしいものを腹一杯食べたい、そして、六畳一間のトタン屋根の家から、苦労しているおふくろを連れ出して、いい暮らしをさせたいという思いからでした。

とも、語っており、

張本さんとしては、十分過ぎる成績を残し、お母さんへの親孝行も果たせたことから、完全燃焼したのかもしれません。

「張本勲の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く

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